鷲神社の熊手で、来年も商売繁盛

池上本門寺のお会式で万灯を眺めながら、酷暑が続いた夏も過ぎ、大田区にも秋の訪れが…と思ってから数日。

あっという間に冬の始まりを感じさせる季節になると、大森の鷲神社では酉の市が開かれます。

今年は11月1日(一の酉)、11月13日(二の酉)、11月25日(三の酉)と三の酉まであります。

大森の駅から歩いて5分ほどの鷲神社にはたくさんの熊手が飾られています。

古くは収穫祭として参拝した人目当てに農機具などを販売したことから、熊手は運をかきこむという縁起ものとされ、商売人の間でもてはやされたことから今に至っているといわれています。

鷲神社は大きな神社ではありませんが、お酉様への参拝と熊手を求める方で大賑わい。

大森駅から鷲神社へ向かう途中にはミルパ商店街があり、大きなアーケドの下ではお好み焼きに、焼きそば、カステラや七味など、たくさんの露店がが連なり、こちらも多くの人でにぎわっています。

近年アーケードに出店する露店の数が減ったようにも感じますが、道行く人の表情には年末の慌ただしさの前のひと時の安らぎと、来年への希望がにじんで見えるような気がして、見ているだけでも心が温まります。

寒さ本番を迎えるこの時期、明日の商売繁盛を願いつつ、熊手を抱えて露店で熱燗を一杯なんて楽しそうです。

ちなみに、酉の市の日は鷲神社、商店街周辺は通行止めになっています。JR大森駅か、京急大森海岸駅が最寄り駅になりますので、そちらのご利用が便利ですよ。

 

恋の炎にその身も焦がした、大罪のヒロイン八百屋お七と密厳院

時は天和3年、一人の少女が火刑に処された。
この少女こそ世に有名な八百屋お七である。
お七伝説は諸説あるが、有力である説をあげると、天和2年の12月28日、天和の大火にて焼け出されたお七の一家は寺院に避難したと言われる。
避難寺生活の中でお七は寺小姓と恋に落ちた。現代で言う「吊り橋効果」というものもあったのかもしれない。
悲劇の中でやさしく迎え入れられた先の若者は、お七にとってはとても魅力的に見えたのだ。

 

実家でもある八百屋が建て直されると、お七一家は寺を出て、それぞれの生活に戻っていくはずであった。
しかし、お七の恋心は距離・時間というものがその恋心をより燃え上がらせたのだろう、彼女は寺小姓をずっと忘れられなかったのである。
恋の炎、という言葉はどこから生まれたのだろうか、その言葉の通りお七は愛する人とまた会いたい、共に暮らしたいという気持ちを薪にして自宅に放火した。

この放火はすぐに消し止められ、大火になることはなかったが、現代においても江戸の時代にあっても、放火は大罪であった。
ロミオとジュリエットのような悲劇のヒロインであったお七は捕縛され、付火の大罪を背負い、火刑に処されることになる。
処刑の場所は「鈴ヶ森刑場」、現代まで語られることになる彼女のストーリィはこの場所で幕を閉じた。

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スティッキーズ内 鈴ヶ森刑場リンク
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多くの書物作品や劇、歌などで語られる八百屋お七の物語であるが、その史実は彼女の火刑で燃え尽きてしまったかのようにその姿を表さない。
「天和笑委集」という作者不明の江戸前期の見聞記にて、物語風に火災現場で活躍した人や放火犯人の様子などが描かれていたが、かいつまむと「恋に身を焦がし、火を付け、自らも火あぶりにされた八百屋の娘、お七」という程度だ。
この史実の少なさというミステリアスな要素が、お七の物語性の広さを色づけているのかもしれない。

悲劇の大罪ヒロイン、八百屋お七であるが、元来大罪人は供養されず無縁となるのが江戸の常であった。
お七も他の罪人たちと同様に無縁仏となるはずであったが、彼女の恋物語はその罪を越え、多くの人々の同情を集めたのだ。

その一心な恋心こそが、小火で済んだ付火とは別に、人々の心にこそ火を付けたのかもしれない。
鈴ヶ森刑場の近くに真言宗寺院・密厳院がある。お七の亡骸はこの場所に埋葬されたという伝承があり、お七の住んでいた小石川の念仏講の人々が、彼女の悲劇に同情し、三回忌にあたる貞享2年にお七地蔵を建てたという伝説もあり、その地蔵は現在も密厳院にある。

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スティッキーズ内 密厳院リンク
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お七の物語は多くの人々に語り継がれ、今も残っている。
消して許されざる罪を犯す結末となった恋の物語だが、彼女の思いは多くの人々を感傷に浸らせた。
密厳院にポツリとあるお七地蔵にも、そのストーリィの片鱗が隠れているのだろう。