鷲神社の熊手で、来年も商売繁盛

池上本門寺のお会式で万灯を眺めながら、酷暑が続いた夏も過ぎ、大田区にも秋の訪れが…と思ってから数日。

あっという間に冬の始まりを感じさせる季節になると、大森の鷲神社では酉の市が開かれます。

今年は11月1日(一の酉)、11月13日(二の酉)、11月25日(三の酉)と三の酉まであります。

大森の駅から歩いて5分ほどの鷲神社にはたくさんの熊手が飾られています。

古くは収穫祭として参拝した人目当てに農機具などを販売したことから、熊手は運をかきこむという縁起ものとされ、商売人の間でもてはやされたことから今に至っているといわれています。

鷲神社は大きな神社ではありませんが、お酉様への参拝と熊手を求める方で大賑わい。

大森駅から鷲神社へ向かう途中にはミルパ商店街があり、大きなアーケドの下ではお好み焼きに、焼きそば、カステラや七味など、たくさんの露店がが連なり、こちらも多くの人でにぎわっています。

近年アーケードに出店する露店の数が減ったようにも感じますが、道行く人の表情には年末の慌ただしさの前のひと時の安らぎと、来年への希望がにじんで見えるような気がして、見ているだけでも心が温まります。

寒さ本番を迎えるこの時期、明日の商売繁盛を願いつつ、熊手を抱えて露店で熱燗を一杯なんて楽しそうです。

ちなみに、酉の市の日は鷲神社、商店街周辺は通行止めになっています。JR大森駅か、京急大森海岸駅が最寄り駅になりますので、そちらのご利用が便利ですよ。

 

大田区とセーラム市をつなぐ、大森貝墟という絆

大田区大森、正式には大田区山王1-3には大森貝墟の碑が建てられている。
この貝墟碑は1930年(昭和5年)に建てられたもので、私はこの碑に、遙かなる歴史を感じずにはいられない。

ーーーーーーーー
スティッキーズ内大森貝墟の碑リンク
ーーーーーーーー

モースという考古学者と日本近代考古学の発祥

ときは明治10年まで遡る。アメリカの動物学者、6月の初夏と言うには湿りすぎている日本の汽車の中でエドワード・シルヴェスター・モース(以降モースという)は横浜から新橋へと向かっていた。
メイン州のポートランドに生まれたモースは、高校は入退学を繰り返し、職も長続きはしていなかったが、少年時代から採取していた貝類の標本は、学者にも浸透しているほどだった。彼は18歳という若さで博物学協会に参加し、21歳には新種のカタツムリを発見し、協会に報告していた。
そんな彼が、腕足動物の研究のため、日本へ訪れていたのだ。
文部省の了解を得ようという目的で汽車に乗っていた彼は、大森駅を過ぎてからすぐの崖に貝殻が積み重なっているのを見つけた。
モースはすぐに日本政府へ許可を求めた。9月には助手ら3人と土器や骨器を発見し、10月に本格的な発掘が始まったのだ。
この出来事が日本近代考古学の発祥といわれている。

大森貝墟に魅せられた男たち

貝塚ときくと、古く勉強した古代人のゴミ捨て場という印象があるが、古代人のゴミ捨て場も現在では歴史的遺跡になる。
特に大森貝塚から出土されるものの多くは縄文時代後期から末期のもので、まだ文字を持たなかった縄文時代のものだという。
乱雑に重なった大森の貝の層から歴史を見る者は、当時モースだけではなかったという。


植物学者としても有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子であるハインリヒ・フォン・シーボルトだった。
モースとハインリヒは、第一発見者の功を争っていたというが、モースが東京府に独占発掘許可を要請していたことや報告書を1879年に出版したこと、ハインリヒ自身が考古学研究から遠のいたことにより、モースの大森貝塚研究は日本近代考古学の発祥として強く印象に残ることとなった。
モースは大森貝塚の出土品の重複分をアメリカへ持ち帰り、博物館・大学へ寄贈した。そしてアメリカの資料を東大に寄贈して貰うことにより、国際交流の橋渡しにもなっていたという。
その後、彼は三度にわたる来日をし、日本の遺跡を研究し続けた。
晩年、セーラムの自宅で87歳の生涯を終えるまでモースは日本考古学に憧れ続けたのだ。

時空と国を超えた絆

悠久の歴史を発掘というかたちで示したモースとのその舞台となった大森貝塚が取り持つ縁で、大田区立郷土博物館とピーボディー博物館(現ピーボディー・エセックス博物館)は姉妹館提携をし、それが発展して、平成3年に大田区とセーラム市は姉妹都市となっている。

1人の人間が起こした行動が、現代の国家間を超えた特別な絆を生むことになったのだ。

NTTデータ大森山王ビル横の小道を一歩踏み込むだけで、はるか昔、文献や土の中からしか感じられない時代の重さは遺跡というかたちで私達を繋いでいる。


いつか私たちの暮らしも遺跡として語り継がれるときは来るのだろうか。

ーーーーーーーー
スティッキーズ内大田区立郷土博物館リンク
ーーーーーーーー

○大田区サイト セーラム市

夕闇の中の黄金郷、大田区中央春日神社の昼の顔、夜の顔

大森駅西口より退場し、八景坂を池上方面へと下っていく。
池上通りの喧騒を横目に、直進すると約15分程度で環七通り春日橋へ行き着くことが出来る
南東京の大動脈、環七の大きな交差点を渡り、一つ目の小道を右へ至ると春日通り、春日神社へたどり着く。
この春日神社は、人通りの多い環七と、住宅街にほと近い場所にあることからか、神社は小高い塀に囲まれている。
しかし、淡黄蘗と青竹色のこの塀の向こう側に、黄金郷は確かに存在する。
 
 

■学問と武道の三柱神と春日神社

 
春日神社は全国にも多く存在するが、その総本社は奈良の春日大社で、春日神は神道の神にあたり、春日権現とも称されている。
大田区の春日神社では建御賀豆智神・伊波比主神・天児屋根命・比売神の四柱神のうち建御賀豆智神(たけみかづちのかみ)・伊波比主神(いわいぬしのかみ)・天児屋根神(あめのこやねのかみ)を祀っている。
記録が残っておらず、正確な年代は不詳であるが、この春日神社の由緒は鎌倉時代に遡り、奈良の春日大社より、大田区春日神社へ神々を迎えたことが創建と言われている。その後、昭和13年に本殿を建設し約700年もの間この地で多くの人々を見守るよう現在の形になったという。
 
★TIPS:大田区春日神社の三柱神
 
建御賀豆智神は雷神、かつ剣の神とされ、相撲の元祖たる神とも呼ばれている。
伊波比主神は建御賀豆智神とゆかり深く、剣の神であり、人々を奮い起こす神であると言われている。
天児屋根神は祝詞の神、出世の神と言われており、天照大神の岩戸隠れの際、その前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出したという逸話がある。
この三柱神は武芸・学問・出世の神であり、人々は必勝祈願や就労祈願に参拝することが多い。
 

■昼ーーー天色と孔雀緑の聖域

 
門をくぐり、鳥居を抜けると、外の住宅街や車通りが嘘のように大田区春日神社の境内は静かにそこにある。
大木から伸びる一筋の参拝道は当然のようにその姿をありありと映し出す。手水舎には荘厳な龍の細工がされており、この神社の格式を保っているのだ。
快晴の日に赴いたこともあってか、この神社の中は天が空色と言うにより青く、木々の緑の向こう側で孔雀緑の本殿の屋根が輝いている。そのコントラストはとても美しく、かの春日大社の片鱗を目で、肌で味わうことが出来るのだ。
春日神社のほと近い場所には集合住宅もあり、中には公園が建てられている。公園で遊んでいた親子が帰り道に参拝に訪れる景色も多いこの場所は、現代の中にも確かにその神聖さを描き出している。
 

■夜ーーー夕闇と黄金の聖域

 
さて、冒頭で黄金郷はたしかにあったという一文を書いたが、これはまさしくその通りであり、この神社は昼の顔と夜の顔を、一日の中で大きく変える。本殿の戸が閉められ、灯籠の明かりが色づき始めると、この神社の数々の細工が、美しい黄金色に輝き出すのだ。
境内の中は神聖な光りに包まれている。
寺社は夜間、恐怖談などの舞台にもなりやすく、幾つかの怪しさを作り出すことも珍しくはないが、この神社は間逆であり、夜にこそその荘厳さが際立ち始める。門戸に施された社紋は灯籠の光を浴び色濃くその力を放ち、境内に光を照らす。
日本画の多くにも美しく描かれる黒と金の配色が現実としてこの目の中に飛び込むさまは、一度自分の目で確かめてみることを強くおすすめする。
 

■神々のいる場所、そして都市の中で生きる人々

 
都市の神社にも珍しくはないのだが、この神社は非常にアナログさを保っている。
祈願の申込みは電話を推奨し、授与品はこの神社の中でしか購入ができない。
これも「一年神に守護を得たら、感謝の気持ちを込め、神社へ返すことが大切」と考えるこの神域の心だからこそ出来ることなのだろう。
何度も言うがこの春日神社は住宅街の真っ只中に存在する。池上通りはバスが走り車が行き交う、春日通りには通勤のサラリーマンや学生、日々を忙しく生きる人々がこの神社の横をすり抜けていく。
幾つもの時代が重なり、遠い700年というときを経てなお、この場所に佇むこの黄金郷は、それでもなお人々を見守り続けているのだ。
当然に存在すること、それ自体が非日常であり、必然であるかのように大田区春日神社は今もこの地にあり続けている。
 
 

大森の「森」

のび太「あたたかいひだまりにねころんでいると、葉ずれの音や小トリの声が、なぐさめてくれるようで、いやなことも忘れてしまう」
小学館発行 藤子・F・不二雄ドラえもん35巻16話『森は生きているより』

 

のび太は何かがあると、学校の裏山に行く。ジャイアンにいじめられたり、テストで0点を取ったり嫌なことがあると、学校の裏山に駆けこんだ。
また、裏山からの景色を眺めて、日本の経済のことをドラえもんやジャイアン、しずかちゃんスネオと話したりもした。

小学館発行 藤子・F・不二雄 ドラえもん「のび太の日本誕生」より

 

森は神聖なものである。

一昨年、早稲田予備校の早稲田クラスで現代文の講義をした。その時の書籍の内容もたまたま「森」だったのでその記事も合わせて書いてみたい。
扱った著書は中沢新一著『森のバロック』である。内容は明治政府の行われた神道化政策により森は解体されてしまったという内容である。一部引用してみよう。

『山や森や寺社の内域には公の権力の浸透できない場所が取り残され、神仏がそれを聖別していた』『長いこと人々は神社の森そのものに神聖を感じ取っていた』
『森の神聖の根源はそこが秘密儀に満ちた曼荼羅であったからである。ところが今や、国家が神道の名においてその内部空間の曼荼羅の解体を推し進めている。(中略)神々の保護失った森の樹木はただの経済商品となるだろう』

要するに、明治政府の神仏分離政策(皇室系統の神とその他の神仏を分離し、皇室系統の神だけが神様だからという思想を国民に啓蒙していく政策)の裏には無数の森の解体があり、それによって日本人が大切にしていた森への神聖観がなくなり、木は商品になったと中沢氏は嘆いているのである。
たしかに、敗戦後、森を切り開き、木材を輸出し、集合住宅を作ったり、ゴルフ場をつくったりして、めざましい経済発展をおこした。

ところで、中沢氏は森を「秩序をもったカオス」「秘密儀の場」と表現している。さらに日本人の信仰が国家神道だけに単一化された状態を「ハードな体質のコスモス」と表現していた。私は上記の言葉のセンスに鳥肌が立った。なぜ鳥肌が立ったかはここに書くと現代文の講義になってしまうのでやめとこうと思ったが、一つだけいうなら「秩序をもったカオス」とは、昔の森は「神神のルールがありながも混沌とした多種多様な神が混在していたのが森だった」ということだ。つまり「マンダラ」なのであり、森は曼荼羅だったのだ。あんなに神様がいるのにどうして木など大量に伐採できようか。神社から賽銭泥棒の罪より何倍も重い。
尚実際の入試問題ではここが設問になっている。講師としては「いいとこ聞くな~・・さすが早稲田!」と思った記憶がある。
(早稲田大学政治経済学部 現代文入試)

さて、ドラえもんに記事をもどそう。
さきほどの明治の神道化政策により、ドラえもんの学校の裏山は一部を除き、23区からは消えてしまったことだろう。

一部を除き・・・

しかし、その一部が、私の街、大田区中央4丁目だとしたら・・・。

私の街では、学校の裏山はまだ存在していた。

それも、大田区中央にある私の自宅から歩いて5分以内に、まさに「学校の裏山」が存在していたのだ。

通称佐伯山緑地である。

ここは佐伯氏の私有地であったが、平成12年に大田区が佐伯氏より3千平米の土地の寄付を受け、公園用地として管理している緑地である。

佐伯山緑地を見守る佐伯矩博士の胸像
佐伯 矩(さいき ただす)
佐伯矩は医学から栄養学を独立させ、栄養学研究所、栄養士制度を発展させた功績から栄養学の父と呼ばれ、世界で初めての栄養学校である「佐伯栄養専門学校」を設立した。
大正9年 国立栄養研究所初代所長
大勝13年 佐伯栄養学校創設(栄養士誕生)
昭和2年 国際連盟初回交換教授
昭和9年 日本栄養学会創始
 

 

大森第三中学校の裏手に位置し、まさに学校の裏山なのである。

学校の裏門の前から遊歩道があり、これを上っていくと先ほどの森の中に入る。

学校の裏山こと佐伯山からの景色。

実は佐伯山が佐伯山緑地として遊歩道を整備したのは最近である。私が子供のころは、カラスと蛇とオオカミがいるという噂の山であった。
もちろんいたずら小僧は佐伯山にはいり探検する。ここは「ガチでヤバイ山」ということで、入山したのがバレると大人達から大目玉をくらうのであった。
一度4年生で佐伯山に入山したことがあった。近所のまきちゃん(仮)とひろし(実名笑)と私で入山を試みた。ある裏口から山に入ったとたん。蛇が巻きついてきた。。。。

三人で悲鳴を上げて一目散に下山した。しかし、その悲鳴が大量のカラスの怒りに触れて、上空をカラスで覆われた。
ほんとに死ぬかと思った。

その年、2月14日の僕の下駄箱には、毎年くれるまきちゃんからのチョコはなかった。。。

これが原因かは不明だが。。。(笑)   後悔、後にも先にも立たず。

 

太陽神の住まう場所 ~天照大御神を祀る八景天祖神社~

JR大森駅を西口に降りるとすぐに木々を青々と実らせている石段が出迎えてくれる。
東京の駅の中でこのように唐突に現れるレトロは別段珍しくはないが、この階段は八景天祖神社と言われる神社へと続いている。

この神社は享保の時代(1716年〜1735年ごろ)に大森の庄屋や年寄、百姓らが伊勢講を組織すると、皇大神宮で御分霊を受け祭祀したのが創建と伝わっている。

■駅前に広がる和風ファンタジー

大森駅の階段を下ったときに見えるこの景色を大田区に住む皆様はご存知かもしれない。
この神社は周りの住宅やビル群の中に忽然と姿を表しているのだ。
狭い石段を踏みしめていくと天祖神社の命名石碑を見ることが出来る。狭く長い石段を登っていく途中には江戸より残ると言われている稲荷石社が今もそこに佇んでいる。
この雑木林の中にあるような神社は間違いなく都市の駅前に存在している。


まるで外の世界と隔絶したようなその和の風景の中石畳を登っていくと、境内にたどり着く。
無人神社であっても手入れは行き届いており、手水舎は空ではあるがその姿はきれいにとどまっている。
とても駅を降りて数分も立たない位置にこのような場所があるとは、この場を見たことがない人々には少し想像がつかないのかもしれない。

■八景坂と神明山

さらにこの神社には少々不思議な事がある。
境内と拝殿前に掲示されている由緒の社号が異なっているのだ。
「神明山天祖神社」そして「八景天祖神社」この場所にはこの2つの名称が混在している。神明山というのはこの神社がおわす小山の名前になるのだが、八景坂というものは社前の坂道を指していると思われる。
この坂は坂上から展望すると房総半島までを眺望できたと言われており、大田区に縁の深い歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれている。


この坂は八景を眺めることが可能と言われていた所以からこの坂の名前を取っているようだ。
たしかに今現在も、アトレがあるため、海側を臨むのは厳しいが、左右に伸びた池上通りの奥の方までを望むことが出来るのは、八景坂の現代の名残とも言えるのかもしれない。
この神社における社宝でもある「義家鎧かけの松」は現在賽銭箱の横に鎮座されているがかつては社殿の脇に生えていたと言われており、「後三年の役」にて松に馬を繋いでいた義家が鎧をかけて休憩したと言われる松の切り株だ。
平安の時代から残ると思われるこの切り株も、現代に残るその姿はこの場所の非現実感を際立たせる。

■御朱印状がなくなれど、現代も訪れる多くの参拝者

この神社では平成25年頃から御朱印の対応をしていないようではあるが、平日においても駅前という性質からか、多くの参拝者が訪れる。
ボーイスカウトの少年少女たちや、近隣の住民の清掃活動もあり、きれいに保たれた境内ならばこそ、多くの参拝者を受け入れることの出来るようになっているのだ。
参考文献が時代の流れや、空襲を経てほぼ残っていないこのような神社も、今も信仰を失うことなく大田区には数多く存在している。