目まぐるしく廻る時代が愛した池上梅園の交差と連鎖

第二京浜のバス停、本門寺裏を降り、第二京浜を本門寺入口信号まで進む。
土地柄か古風な建物や、年季の入ったビルディングが立ち並んでいるこの交差点を右手のガードを潜ると、塀の向こう側にまるでアスレチックにも似た遊歩道が見えてくる。
ここが池上梅園だ。この場所にも、人々の永い時をつなぐドラマがある。

美人画家、伊東深水と池上梅園

歌川派の浮世絵を正当に受け継ぎ、最後の浮世絵絵師と言われた美人画家・伊東深水、記念切手の柄にも採用されている彼の名画の数々は誰もが一度は目にしたことがあると思われる。
日本画特有の柔らかな美人画は今も多くの人々を魅了し、その人気は国内外に及んでいる。
時としてその人気は、伊東深水を悩ませる期も合ったが、彼はそれでもなお独自の題材で日本画を制作していた。
伊東深水の家系は誰もの驚くところであるが、元宝塚月組娘役でもあり、日舞の家元、そして数多のテレビ番組にも出演していた朝丘雪路を娘に持ち、浮世絵を主に日米の文化の橋渡し役としても活躍し、多くのオペラや舞台美術を担った勝田深氷を子息にもつ。
その伊東深水の邸宅兼アトリエはこの池上梅園の土地にあったのだという。
現在、池上梅園となっているこの土地も戦災にあい、伊東深水の邸宅も消失してしまったという。
戦後、拡張され築地の料亭経営者の邸宅となっていたが、所有者の没すると、庭園として残す事を条件に東京都・大田区へ譲渡された。

 

池上に息づいているネオジャパネスク

池上梅園へ入場すると、外の世界からはなかなか想像できなかった和の世界へと誘われる。外国人も多く訪れるこの場所だが、賑わいを見せつつもどこか落ち着いており、人々はこの場に憩い、景色に魅了されているようだった。


木製の通路に沿い、梅を中心に様々な植物が出迎え、喧騒や車の空気がシャットダウンされる錯覚すら覚えてしまう。
入場左手側からぐるりと梅園をまわり、見晴台へたどり着くと自然をフレームに池上梅園の入口側を、そして背には池上の街を望むことが出来る。景観を大切に思うこの街だからこそのミックス的風景はネオジャパネスクという言葉に沿っているとも言えるのではないだろうか。


見晴台を越えると、なだらかな下りにはいる。見頃をとうに過ぎている梅園風景も一味違う味わいがあり、冬へ向かう季節を心地よく刺激している。

 

日本画から飛び出した世界と薬医門

下り坂も終わると砂利の音が心地良い和室前に行き着く。この場所はうぐいすネットからも予約利用ができる施設となっている。和室にの縁側には大きな池があり、その水面には和室と梅園の植物が映し出され、日本画の景色そのものとも言える。


日本画の景色を堪能すると、薬医門にたどり着く。
繁忙期にはこの場に露店が登場し、甘酒などが振る舞われるそうだ。庭園巡りも佳境に近づいてくるこの場所は人々の良い休憩地点にもなっており、ベンチに腰掛け談笑に浸る人々の賑やかさが心地良い。現在は施錠されている薬医門も、長い年月が過ぎてもなおその佇まいを保っている。

★TIPS:薬医門
薬医門は、矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと言われている説と、かつて医者用の門として門の脇に木戸をつけ、扉を閉めたときにも患者が出入りできるようにしていたという説がある。
鳥居を3つかみ合わせ、屋根を載せたような作りのものが多い。

 

清月庵と聴雨庵を受け入れる純和風

池上巡りの最終地点は茶室、清月庵と聴雨庵だ。伊東深水のアトリエを設計した、江戸の大工技術を受け継ぐ川尻善治が自宅の離れ家を自ら隠居用として建設したという清月庵。
当時、池上門前にて温室園芸と料理屋を営んでいた川尻家は、その後の都市開発の際、解体の話が持ち上がっていた。
しかし、江戸より受け継いだこの建築を保存する運動が起き、保存活動に尽力した大田区在住の華道・茶道家の中島恭名はこの建物を買い取り大田区へ寄付したという。
大田区は深水・善治の両名にゆかりの深いこの池上梅園に再建することで名を清月庵として平成元年から茶室として公開している。


清月庵の向かいにはもう一つの茶室、聴雨庵が佇んでいる。
この建物は藤山愛一郎所有の茶室であったが、昭和58年に大田区へ寄贈されたものだ。
聴雨庵の名前の由来は、藤山愛一郎の父、藤山雷太翁の号を「雨田」と称したところからという説がある。


別々の時代に、別々のドラマの主役となったふたつの建物が、この場所に肩を並べ純和風の日本庭園に溶け込み、静かに観光客を出迎えている。

★TIPS:藤山愛一郎
藤山愛一郎とは、日本の政治家であり、実業家。
1941年に日本商工会議所会頭に44歳という異例の若さで就任したという。
戦後、日本航空の初代会長に就任し、経済同友会代表幹事も兼任するなど、実業家として活躍していた。
岸内閣では民間人ながら外務大臣に就任。
1967年に勲一等旭日大綬章、衆議院選挙連続8回当選など、日本政治界に多くの影響を与えたと言われている。

 

激動のドラマたちは、日常に当然のように登場する。

清月庵と聴雨庵を後にすると池上梅園めぐりは出入り口にたどり着き、終りを迎える。
この場所は、別の時代、別の場所、別の世界が多く混在しつつ、その形をとりなしている。
日常の中に忽然と現れる緑の原風景のように、数々の人々が生きた証がこの梅園の中にたしかに今も残されているのだ。
そして、この梅園に心惹かれ訪れる多くの観光客のドラマにもこの池上梅園が記憶として残っていく。

お会式桜が街を彩る秋の夜長の万灯練供養

暑い夏が終わり、実りの便りが届くころ大田区の池上本門寺ではお会式(おえしき)が営まれます。

 

お会式とは

日蓮上人がご入滅なされた10月13日にあわせて行われる法要のことで、特に池上本門寺では、日蓮上人がお亡くなりになった時にお会式桜(ジュウガツザクラ)が咲き誇ったという故事から、12日には万灯を掲げ報恩をささげます。

 

いつもはおだやかな住宅街の池上もこの日ばかりは夜遅くまでお題目と万灯、そして30万人を超える人々でにぎわいます。

 

 

「御命講(おめいこ)や 油のような 酒五升」は芭蕉が詠んだ句ですが、御命講はお会式のことで、秋の季語とされています。まさしく本門寺のおひざ元ではお会式とともに本格的な秋の訪れを感じさせてくれる大事な行事となっています。

 

 

2017年、今年のお会式は日中気温が29℃まで上昇し、まだ残暑を思わせるような陽気でしたが、夕方には季語にふさわしい涼やかな風が吹きはじめ、池上本門寺へと歩みを進める人々の足取りも軽やかに感じられます。

 

 

午後7時、大田区中央6丁目付近の池上通りではもうすでに万灯を準備する風景が見られます。通りを飾る提灯と、笛、太鼓の音が見慣れた風景を変えていき、お会式にむかう歩みと共に少しずつ気分も高揚していくようです。

 

 

本門寺周辺では車はおろか、自転車も乗り入れができません。正面の参道に至っては初詣を思わせるような多くの人で、警察の方々による誘導も入念です。

 

 

本堂へと向かう人々の右側を主役の万灯が連なってゆきます。古くは提灯にお会式桜を添えた簡素なものだったそうですが、江戸の火消しが参拝するようになると、纏がおどるようになり、笛と団扇太鼓が加わると、年々賑やかになっていったそうです。

 

 

池上本門寺のお会式は他の万灯行事とは異なり、五重塔などの宝塔を紙で作られた花が明るく飾っているもの、人形や行灯をかたどったものなど、多種多様な万灯を数多く見ることができ、参道に腰かけ、万灯を見物するだけでも見飽きることはありません。

万灯と歩みを進めていくと、正面に加藤清正が寄進したといわれる長い石段が見えてきます。お会式の絶景スポットのひとつでもあるこの石段は下から見るもよし、上から見るもよしで、黒山と万灯の白く淡い光がゆらめいてとても幻想的です。

 

 

【注意】階段に上り始めてからはとても危険なので立ち止まったり、振り返って写真などは撮らず、石段を登り始めたら最後まで登り切りましょう。階段の上からの景色は参拝後に帰りのルートで楽しむことができるので、ここではマナーを守って前を見て、足元に気をつけながら、前に進みましょう。

 

 

正面には仁王門。勇壮な仁王像の間をきらびやかな門燈の列が通り過ぎてゆきます。ほの白い灯りに照らされた仁王像の幻想的な陰影にうっとりしながら、いよいよ大堂が間近です。その左手には空襲の焼失を免れた経蔵があり、一番古くからこのお会式を見てきたであろう建造物としてこちらも必見です。

 

 

次々とやってくる万灯とともに大堂の石段を上がります。
大堂には日本画壇の偉才、川端龍子による「未完の龍」を天に仰ぎ、仁王門の方を振り返ると僧の肩越しに美しい万灯。まさにサンクチュアリからの景色は厳かで、それでいて優しく自然と笑みがこぼれそうな何とも言えない雰囲気です。

 

 

このまましばらくこの空気に身をまかせていたいと思いながらも、多くの方が後ろでお待ちですので、日蓮上人に手を合わせ、心から平安を祈りつつ、大堂を後にします。

左手には江戸以前、桃山期に建立された日本で唯一の五重塔があり、その周辺には露店が多く、参拝をすませた方が食事にお酒にと各々に楽しんでいる光景が見られます。
五重塔を背に露店に挟まれた小道を行くと前述の石段からの絶景ポイントへ。ここもたくさんの人ですので、少し眺めて心に焼きつけたら後ろの方に譲ってあげましょう。聖域での欲張りは禁物です。

 

 

今年は大田区中央6丁目を午後7時ごろ出発。のんびり歩いて、ちょっと寄り道しておよそ2時間。夜9時を過ぎてもまだまだ参詣者も万灯の列も途切れることもなく、例年では深夜まで及び、長い夜となります。この日ばかりは子供たちも親公認の夜更かしです。

日蓮上人は「一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祈るべし」(自らの幸せを願うなら、世の中の幸せを考えるべきだ)と説いたそうです。
お会式の帰り道、石畳の上で綿あめを片手に嬉しそうにたこ焼きを頬張る子供達のほほえましい姿を見ていると、にわかに平和であることのありがたさを実感してきます。

今日の笑顔のひと時は安国を願った日蓮上人のお心と、未来の平和を希求した先人たちの不断の努力のおかげだったのだと、そっと教えてくれているような夜長のひと時でした。