雪が谷大塚駅を下車し大田区立調布大塚小学校方面へと向かい7分ほど歩いたところに、住宅街の中に突如として鳥居が出現する。
ここが鵜の木大塚古墳と呼ばれる史跡だ。
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スティッキーズ内 鵜の木大塚古墳リンク
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大田区には亀甲山古墳など大型の古墳がいくつも存在する。
この鵜の木大塚古墳もそんな古墳の一つなのだ。
大田区内の「荏原古墳群」と呼ばれるものの中で最も東に位置している。旧鵜の木村の飛び地にあったため「鵜の木大塚古墳」という名がついたこの古墳の入口の稲荷神社は鳥居が連立し、その荘厳性を保っているようだ。
先述の通り、小学校付近の住宅街にあるこの古墳ではあるが、鳥居をくぐると木々のざわめきが勝り、その神秘的な音により喧騒は遠くなる。
古墳といえば、日本における古代のピラミッドのようなものと言う印象が強いだろう。
形状、大きさは様々であるが、古代の日本の豪族たちの墳墓の一種とされている。発掘が許可されていない古墳が多いため、その形状や土などが年代や文化を推察するための大きな手がかりともなる。発掘されている古墳からはさまざまな歴史的文化物が見つかっている。
多摩川沿いの起伏の激しい土地が多い周辺だが、この古墳の近辺は実は平坦な土地になっている。
都の旧跡としても指定されているため、参道の中には鵜木大塚古墳を説明する看板も存在した。
立ち並ぶ鳥居を抜けていくと、現在では使用されていないであろう古い汲み上げ式の井戸があった。
年代を感じさせるその佇まいからもこの神社と古墳がそれほどの昔から存在するであろうことが推察できる。
鳥居を抜けると更に石段があるのだが、おそらくこの石段はすでに古墳の一部なのだろう。亀甲山古墳と似た創りに、墳墓と神社の関係性の深さが見えた。
石段を登りきるとこじんまりとした稲荷の祭壇がある。コンクリートの塀に囲まれているため、形状がつかめないが、この先に古墳頂上へと続く道があるようだが、その道は舗装されておらず危険のため立ち入り禁止になっているようだ。
石段の頂上から下の参道を見ると、この平坦な地形にしてはだいぶ高所に当たる事がわかる。
木々のトンネルは、そこはかとなく池上本門寺の石段を思い起こさせた。
住宅地の真ん中に、このような場所があり、まるで外界と分かたれたように生えている木々は、やはり神秘的だ。
神社をあとにし、古墳の外周を沿うように歩くと古墳裏手へ回ることができる。
裏手からはまるで盆栽アレンジメントのような円形の古墳が見え、やはり日常の中に突然現れるこの場所の神秘性を底上げしているようだ。
旧跡たちはつどつど歴史の置き土産と呼ばれることが多く、たしかにこの場所もそんな歴史の置き土産の一つなのだろう。
人々の生活を、何代も見守り続け、それは未来へと続いていく。
文献が多く残っているわけではなく、当然のようにこの場所に残り続ける鵜木大塚古墳は、先の未来まで人々の生活の中にあり続けるのだろう。