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金森誠也が語る。 哲学と文学と歩んだ九十年、そして新たなる大田区への思い
東京都大田区山王在住のドイツ文学者、哲学者、翻訳家
日本ショーペンハウアー協会評議員、日本ペンクラブ名誉会員
東京大学文学部ドイツ文学科卒業 NHK勤務(25年間)
広島大学・亜細亜大学・静岡大学・日本大学の教授を歴任
1993年 日本独学史学会賞。2007年 国際文化表現学会賞受賞
「教科書に書けない世界史」「ショーペンハウアー、孤独と人生」「W・ゾンバルト、恋愛と贅沢と資本主義」など執筆、翻訳、監修を行っている
大田区山王から仙台、そして陸軍学校へ
―お住まいは大田区山王と伺っておりますが
金森)品川区西大井で生まれ、昭和9年、小学校1年生の頃に山王の今の家にへ引っ越しました。
―私もご自宅の前をよく通りますが、素敵なお宅ですよね。
金森)まあ、住んでる人も素敵になりたいもんだけどね(笑)。建築士の父が建てたレンガ造りの3階建で、80年ほど住んでいます。当時としては珍しい建物でしたね。
―そちらから学校へ通われていたんですね。
金森)入新井第三小学校(現在の山王小学校)へ5年生の1学期まで通っていました。その頃、父が内務省土木出張所長になったので、転勤で仙台へ越していました。小学校卒業まで仙台にいましたが、その後早稲田中学校に入りました。そして中学校の途中で陸軍経理学校へ志願で入りましたが、翌年昭和20年8月15日終戦。9月2日には復員で帰ってきました。
―陸軍経理学校はどちらにあったのですか
金森)小平市です。小平から復員して、高校の編入試験を受け、旧制都立高等学校へ入りました。そこの理科を卒業しました。
終戦後生きるべき道を教えてくれたのは哲学と恩師だった
―その頃は理系だったんですね
金森)そう、その後文学へ転向しまして、昭和24年4月に東京大学文学部へ入りました。
―なぜドイツ文学に関心を持たれたのでしょう。
金森)私なんかは単純なもので、兵隊となって、負けて帰ってきまして、これからどうして社会に奉仕していいものかと考えた時に、学問で奉仕するしかないかと思ったんです。
―学問で奉仕ですか。その為に東京大学へ入学されたんですね。
金森)学問で奉仕する方法として二つあるんです。一つは学校の先生となって教育すること、もう一つは翻訳を含めて本を書いて指導すること。どちらかというと私は後者が好きですけどね(笑)。
―ドイツ文学に関心をもたれたのは翻訳のお仕事にもつながっているわけですね。それでは、社会への奉仕の気持ちを持たれるきっかけは何だったのでしょうか。
金森)都立高校時代にギリシャ哲学やカント哲学を知ったんです。高校の恩師、高峯一愚先生から。すごいことがあるもんだなって思ったんですよ。プラトンやらアリストテレスを通して「人生どう生きるべきか」を教えてくれるわけですよ、高校の先生がですよ。
―哲学との出会いだったのですね。
それと終戦ですね…それまでは日本のためと言っていたのが、負けて帰ってきて、これから皆さんに何を奉仕したらいいかと。その時、哲学や恩師が私に教えてくれたことを思い出したんです。
―なるほど。終戦を迎えたとき高校の恩師が教えてくれた哲学が社会奉仕へと導いてくれたと。
金森)お国の為っていうのよりみんなの為っていうのが良いよね。奉仕っていうのが別に偉いわけじゃないけど。
―人生を模索した十代の後半に大きな出会い、まさに転換期だったのですね。
人間のひとつの生きる道“高等遊民”とは
金森)人間生きる道にはいろいろあって、大会社の社長、企業戦士、下町ロケットなんてのもあるけど、もう一つ、日本人が好むのはむしろぷらぷら暮らすことだよ。
―ぷらぷら暮らす?
金森)高等遊民。それが実は日本人の憧れのひとつでもあるんだよね。
夏目漱石の「それから」「門」、川端康成の「雪国」主人公は早く言えば遊び人。
もっと昔から言えば、伊勢物語、源氏物語の頃から日本人の理想はけっして戦いに強い義経みたいな人ばっかりじゃないんだ。女にゃもてるけど、力はない。
例えば本を出すときだってそうだよ。会社の会議室でインスタントコーヒー飲んでたって良い答えは出てはこない。バー、キャバレーでドンチャカやって答えが出る時もあるってもんだよ。
―清濁もあり、人間がどう生きるかは様々だと。
金森)そう、これじゃなきゃいけないってこともない。学問もいろいろだ。そういえば英語が役に立って家を取られずに済んだこともあったんだ(笑)。
―ドイツ語以外にも英語も堪能だったのですね。それで、家を取られそうになったというのは?
金森)ロシア語もやってたよ。ニコライ学院で。それで家はね、昔、空襲があったとき山王の被害は少なかったんだ。米軍が接収するためだったんだろうね。戦後米軍は住宅不足だったんで、空襲しなかった山王の家々を米軍の住宅とする為に接収しに来たんだよ。それである日、うちにも来た。米軍が通訳を連れてね。ところが、通訳より俺の方が英語がうまかったんだよ(笑)。だから、「この家は危険な家である。天井から粉が落ちてきて、いつ崩壊するかわからん!」なんて全部英語で説明して追っ払っちゃった。陸軍経理学校でやった英語が役に立ったよ。
―意外なところで英語が役だったのですね。
大田区の美点はたくさんある
神社仏閣、文士村に、大森貝塚、そしてお肉に遊泳
―ところで、当時大田区で接収された家は多かったんですか?
金森)大田区だと田園調布でもあったみたいで、どういう内容で接収されていたかは占領政策だから詳しくは分からないけど、昭和52年ごろから少しずつ返されていったみたいだね。
―大田区続きで伺いますが、大田区内で思い出に残る場所はありますか?
金森)思い出というわけではないけど、印象に残る名所は日蓮上人が手足を洗ったという洗足池。多摩川園。あとは大森海岸です。家族と池上本門寺に行ったりもしました。そこも名所ですね。特に10月12日の池上本門寺のお会式。昔は大森駅からも池上通りを万灯が通って壮観でしたよ。
あと最近は羽田空港ですね。あそこは食べるものが揃っていてさらにうまい。
それに、大森貝塚。モースが書いた本は面白いですね。岩波文庫で「大森貝塚」っていう本がありますので読んでみて欲しいですね。
―よく行かれる大田区のお店はありますか?
金森)大森駅のアトレの5階グルメ。みんなうまいけど、よく行くのはシャングリ・ラ。お肉料理がうまいな。
昔、ジャーマンベーカリ―っていうお店が大森駅の前にあって、今は別のお店になってるけどそこもよく行った。あとは富士レストランかな。駅の近くの石段の途中のメキシコ料理、ラ カルネだね。そこも今はなくなってしまったね。
―大森駅周辺のお店が多いようですね。大田区の特に好きなところは何でしょう?
金森)海だね。
―東京最初の海水浴場、大森海岸ですね。海もなくなって海水浴場はなくなってしまって残念ですけど。
金森)まだ、見られるよ。大森東の方で。大森ふるさとの浜辺としてね。
昔はよく泳ぎに行ったよ。今の平和島競艇場の所に大きなプールがあってね。子供を連れて。今でも泳ぎに行くよ。400mぐらいね。
―それはすごいですね。昔から泳ぐのはお好きだったのですね。
金森)運動神経はないけどね(笑)。親父にも言われたよ、「お前はダンスもできないし、女にももてないから、学問でもやれ」ってね(笑)。
―それで大学教授にまで!?すごいですね。
それでは大田区が今後どのような街になって欲しいと思われますか。
金森)いくつかありますね。たとえば大田区は中小、零細企業が多くあります。なかなか優れた技術を多くもった、そういった大田区の工場を周知して欲しいと思います。大田区工場見学ツアーみたいなね。会社の都合があるから勝手にできないだろうけど、そういうのをやってみんなに知ってもらいたいね。それと、大田区の神社仏閣見学ツアー。池上本門寺だけじゃなくて、他にも知ってもらいたいところもたくさんあって、新田義貞の息子、新田義興を奉る新田神社、大森だと天祖神社、熊野神社、日枝神社なんかも良いですね。そういった工業、工場、神社仏閣などを皆さんに知ってもらいたいですね。
それと、食です。大田区でしか食べられないっていう名物がたくさんあると思うんです。そういうものもしっかり探して皆さんにお伝えしていただきいたいですね。
―最後に大田区の情報を発信する大田ステッキ―ズに一言お願いいたします。
金森)人間はね、生きていくうち自分の幸福だけではなく、人の幸福も考えなきゃいけない。家族だけでなく、社会もね。地域社会に貢献するというのもそのひとつです。会社や官庁、あるいは工場に勤めてその発展に尽くすということも必要ですが、とりわけスティッキーズには地域社会に貢献してもらいたいものです。それはどうしたらよいか、人によって方法はすべて違います。学者なら本を書いてみんなに読んでもらうこと。公園の掃除をすることだって良いかもしれません。ただ、スティッキーズがやるべくことは情報サイトならではの手法で、新たな地域社会の美点を紹介してもらいたいと思います。大森貝塚やモースさん、大田区の名所のことを知ってもらうことなどはもちろんですが、大田区に尽くされた多くの功労者を紹介してくれることを期待しております。
―大田スティッキーズはみんなの力で大田区にできることを行っていくことが大事であり、新たなる観点で人物、地点にスポットを合わせて皆様に分かりやすく、ご紹介できたらと思っております。金森さんのお言葉、とてもありがたく思います。
金森)大田区には馬込文士村がありますが、せっかく美しい写真やデザインができるのであれば、文士たちの業績が分かるようなパンフレットなども作って欲しいなとも思います。
―ありがとうございます。ご期待に添えるよう頑張ります。
金森)文士と言えば余談だけど、そのひとり、宇野千代さんはペンクラブであったこともありまして、私の「宇宙人の謎」という訳本を読んで感激してくださったんです。さらにそれを小林秀雄さんに紹介してくれた、なんてこともありました。
―文士村を含めて大田区の様々な美点を多くの方にお伝えできるよう頑張りたいと思います。ぜひ金森さんにも引き続きご協力いただければと思います。本日はありがとうございました。
金森)これからも頑張ってください。
金森誠也さんとはひょんなところからお知り合いになり、何度かお酒を酌み交わしながら、さまざまなお話をお聞きし、本日のインタビューと至りました。今回のインタビューでお聞きしきれなかった、大田区の過去の情景や文化など、再びお聞きすることが叶うのを楽しみにしております。
また、哲学を通して人間が行うべき社会奉仕の心についても、まさしくスティッキーズが負うべき役割へのエールと感じております。
齢九十をお迎えになるにもかかわらず、雑談も含めた長時間のインタビューにも、にこやかに受け答え頂き、大変うれしく思います。
大田区を考える熱い気持ちと優しい眼差しでお話し下さったことを忘れず、大田区の美点を発信できるようスティッキーズの編集に真摯に取り組んでまいりたいと思います。本日はありがとうございました。