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大田区とセーラム市をつなぐ、大森貝墟という絆

2018/04/22
スティッキーズ編集部
■ Writer | スティッキーズ編集部
店舗イメージ

大田区大森、正式には大田区山王1-3には大森貝墟の碑が建てられている。
この貝墟碑は1930年(昭和5年)に建てられたもので、私はこの碑に、遙かなる歴史を感じずにはいられない。

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スティッキーズ内大森貝墟の碑リンク
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モースという考古学者と日本近代考古学の発祥

ときは明治10年まで遡る。アメリカの動物学者、6月の初夏と言うには湿りすぎている日本の汽車の中でエドワード・シルヴェスター・モース(以降モースという)は横浜から新橋へと向かっていた。
メイン州のポートランドに生まれたモースは、高校は入退学を繰り返し、職も長続きはしていなかったが、少年時代から採取していた貝類の標本は、学者にも浸透しているほどだった。彼は18歳という若さで博物学協会に参加し、21歳には新種のカタツムリを発見し、協会に報告していた。
そんな彼が、腕足動物の研究のため、日本へ訪れていたのだ。
文部省の了解を得ようという目的で汽車に乗っていた彼は、大森駅を過ぎてからすぐの崖に貝殻が積み重なっているのを見つけた。
モースはすぐに日本政府へ許可を求めた。9月には助手ら3人と土器や骨器を発見し、10月に本格的な発掘が始まったのだ。
この出来事が日本近代考古学の発祥といわれている。

大森貝墟に魅せられた男たち

貝塚ときくと、古く勉強した古代人のゴミ捨て場という印象があるが、古代人のゴミ捨て場も現在では歴史的遺跡になる。
特に大森貝塚から出土されるものの多くは縄文時代後期から末期のもので、まだ文字を持たなかった縄文時代のものだという。
乱雑に重なった大森の貝の層から歴史を見る者は、当時モースだけではなかったという。


植物学者としても有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子であるハインリヒ・フォン・シーボルトだった。
モースとハインリヒは、第一発見者の功を争っていたというが、モースが東京府に独占発掘許可を要請していたことや報告書を1879年に出版したこと、ハインリヒ自身が考古学研究から遠のいたことにより、モースの大森貝塚研究は日本近代考古学の発祥として強く印象に残ることとなった。
モースは大森貝塚の出土品の重複分をアメリカへ持ち帰り、博物館・大学へ寄贈した。そしてアメリカの資料を東大に寄贈して貰うことにより、国際交流の橋渡しにもなっていたという。
その後、彼は三度にわたる来日をし、日本の遺跡を研究し続けた。
晩年、セーラムの自宅で87歳の生涯を終えるまでモースは日本考古学に憧れ続けたのだ。

時空と国を超えた絆

悠久の歴史を発掘というかたちで示したモースとのその舞台となった大森貝塚が取り持つ縁で、大田区立郷土博物館とピーボディー博物館(現ピーボディー・エセックス博物館)は姉妹館提携をし、それが発展して、平成3年に大田区とセーラム市は姉妹都市となっている。

1人の人間が起こした行動が、現代の国家間を超えた特別な絆を生むことになったのだ。

NTTデータ大森山王ビル横の小道を一歩踏み込むだけで、はるか昔、文献や土の中からしか感じられない時代の重さは遺跡というかたちで私達を繋いでいる。


いつか私たちの暮らしも遺跡として語り継がれるときは来るのだろうか。

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スティッキーズ内大田区立郷土博物館リンク
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○大田区サイト セーラム市

スティッキーズ編集部
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