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洗足池

田島 圭祐
■ Writer | 田島 圭祐
店舗イメージ
紅葉にはまだ早い、10月18日の昼過ぎ。
親父が私の手を握り、池上駅に向かった。
どこに行くのかと聞く私に、いつもとは違う優しい眼差しで、親父は、いいから着いてくるように私に伝えた。
売店で菓子を買ったり、電車内でそれを食べることを品がないと特に嫌っていた父だが、その日に限って、好きな物を買っていいと言った。
私はかねてより気になっていたブルーベリーガムをねだり、それを口にして、小言王の父の顔色をうかがいながら、池上駅のホームに立って緑の電車を待っていた。
相変わらずの古いモーター音を轟かせ三両の古びた電車がホームに滑り込んできた。
それに乗り込で、外の景色とガムにご満悦の私に、父は優しさ8で微笑んでくれた。
 
降車したのは洗足池駅だった。
私は、すぐに察した。
 
以前より母に話していた、洗足池のボートに私を乗せてくれるのだと。
 
ガムの味がなくなり、2枚目を口にしようとした時、父がアヒルの足こぎを指差した。
私は、一瞬目を丸くして、そして、目を細めた。
父は、洗足池のボートは絶対に手漕ぎボートでないと乗せないと、以前より宣言していたからだ。
 
どういう趣旨か知らないし、いまだにそれを確かめようという気が起きないなのだが、例えば、ファミリーレストランよりも渋い蕎麦屋を、遊園地よりも、池上梅園に連れて行く父なのであるか、それは何となく子供なりに理解していた。
その父がアヒルの足こぎを指してくれた。
 
アヒルは洗足池の真ん中の小島に向かった。
そろそろ半袖では肌寒い季節になっていて、寒そうにしている私に父は上着をかけてくれた。
 
小島にアヒルをつけた父は、私に優しさ5厳しさ5の視線を投げかけた。
 
 
私のはてなに、父は静かに語りかけた。
 
「お母さんはおまえだけのお母さんじゃなくなるんだ。」
 
 
 
「ん?何で?」
 
 
 
「今日はお父さんがカレーを作ってあげる。」
 
「、、、、別にいいけど、、、」
 
「今日はお母さんは帰ってこないんだ。」
 
「、、え?、、もう帰ってこないの?」
 
 
「違うよ、そうじゃない。。今日と、、そうだな、、一週間は父さんとバーバとジィジと3人だ。」
 
「なんで??」
 
「、、それとな、これからお前はたくさん我慢しなくてはいけなくなる。欲しいオモチャも、ケーキも、少しだけ譲らなくてならなくなる。」
 
「、、、え?、、、やだよ」
 
 
「、、そうだな。でも、父さんもそうだった。いつまでも赤ちゃんじゃいられないんだぞ。。わかるか?」
 
「、、何??なんでー?うれしくないよ。」
 
帰りに道、バーモントカレーを買って、誰もいない暗い家に帰った。
その時は、もうガムの喜びも、アヒルの楽しさも全て吹き飛んでいた。
 
「、、お母さんは??ねえ?父さん、、」
 
私が涙ぐんだその時、奥の部屋から祖母が出てきて、私を優しさ10で抱きしめてくれた。
 
その日は、半べそをかきながら、祖母の腕で抱かれて眠りについた。
 
夜中、父の歓喜の声と、祖母の着替える音で、目が覚めた。
 
「お袋!男の子だって!男の子だってさ!!」
 
「いいからあんた、すぐ日赤病院いかなきゃ!」祖母が着替えながら、大声で父をどやしつけていた時だった。
 
半分寝ていた私は、父に抱きかかえられ、次の瞬間、三回ほど程宙に舞った。
 
「おい、弟だ!弟が出来たぞ!!楽しいぞ!嬉しいぞ!」
 
弟が産まれた。
 
その日の記憶は、鮮明に覚えている。
バーモントカレーのハチミツ味も、ブルーベリーガムの味も。
 
34年後の洗足池も、相変わらずボートの上に人生が行き交っているのだろうか。
皐月の池上線からそんなことを思って五反田へ向かった。
 
変わらないこと、それも大田区の魅力。
田島 圭祐
Writer
田島 圭祐