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田園調布せせらぎ公園という絶景に秘められた歴史
田園調布せせらぎ公園
高級住宅街としても日本中に名高い田園調布。その徹底した都市開発プランはイギリスで提唱された田園都市構想をモデルとしている。
田園都市構想とは、都市の外側を田園や緑地帯で囲むことで、企業を誘致しても交通渋滞や公害なく、住宅環境に優れた都市を建設するというものだ。
この街には田園調布せせらぎ公園という、東京、ましてや日本にいることすら一瞬忘れてしまいかねない絶景が存在する。
駅を降りた瞬間に広がる森林風景
田園調布駅の一駅となり、多摩川駅に降車し、多摩川園跡地側へ出ると道を挟んで森林風景が広がっている。
ここが田園調布せせらぎ公園である。
3ヘクタールにもおよぶ長方形の公園はその殆どが樹木に占められている。
公園の中に入ると、まるでアニメ映画のような木々のトンネルの中を歩くことが出来る、石畳に日差しから落ちた緑色の影が美しい色合いを演出しているのだ。
公園広場近くや、道の途中には幾つものベンチや休憩スペースが設けられており、森林浴を楽しみながら友人やカップルで談笑をしている人々も多い。
この絶景の中、公園の東側へ歩いていると、この田園調布せせらぎ公園という名の通り、湧き水から小川のせせらぎを見ることが出来る。公園には幾つもの池があり、そのどれもが湧き水から水を引かれている。そしてその池は公園の木々と美しくマッチしていて、東京にいることを忘れてしまう。
東京都内でも田園調布は一風変わった場所だと思われるのは、このように街の一つ一つを細部までこだわり抜いているところがあるからかもしれない。
温泉遊園地、多摩川園が残す田園都市
田園都市株式会社(現在の東急電鉄)が田園都市をつくる目的で分譲地を買収した際、雑種地という地目、「いかり」という地名から分譲には利用できないと思案した際に生まれたのが温泉遊園地多摩川園だと言われている。
大正14年に開園した多摩川園は、いわゆる小遊園地とよばれるもので、飛行塔やお化け屋敷などの遊戯施設があった。現在の多摩川駅の両面にあった同園は、台地に展望塔や「松の茶屋」が建設されていたという。
田園都市の中「子ども向けで乗り物中心」のコンセプトである遊園地は賑わいをみせ、人々に愛された場だったという。能楽堂が建設されると、度重なる戦火からの能楽復興の拠点として、さらなる賑わいもみせていた。
田園都市株式会社による田園都市づくりは成功をおさめ、現在の田園調布の基礎を作っていったが、第二次世界大戦が始まると一時休園となった。
戦後復興に合わせ、半営業再開を果たした多摩川園は東京オリンピックの際にはさまざまな遊具を増やし年間来場者数100万人という記録を残したという。
だが、昭和43年京浜地域の大イベント、丸子多摩川花火大会が中止されると街の情勢は観光地としての環境から住環境へと移ろっていき、近隣紛争や周辺交通環境への苦情も増えていった。これらの問題が痛手を与えたであろうことは容易に想像ができる。
いくつもの問題により、昭和54年、多摩川園は閉園した。お別れイベントの「さよなら多摩川園」には非常に多くの来場客が訪れ、その閉園を悲しんだという。
田園調布せせらぎ公園の中には今も多摩川園跡地が残っており、その歴史を感じることが出来る。
この広大な土地は間違いなくかの遊園地が現代に残したものなのだ。
多摩川園後の田園調布せせらぎ公園
多摩川園が閉園になると跡地は高級テニスクラブへと移ろっていった。
これは田園調布という土地柄ともマッチし、賑わいを見せたが、バブル崩壊とともに経営苦に陥り、平成14年に営業終了した。
その跡地が売却に出された際、大田区が公園予定地としてその2/3を取得し、平成16年に公園として開放、翌々年の平成18年に公園名称を公募し、田園調布せせらぎ公園が出来上がった。
付属していた松の茶屋は旅館として営業していたが、現在は取り壊され、多摩川台公園の一部分になっている。
水と緑に囲まれた豊かな自然を感じることのできる公園は多くの植物・生物があり、湧き水を利用した池には多くの水生生物を鑑賞することも出来る。
また、この日常から隔絶されたような自然をもつ公園の広場には多くのファミリーが訪れ、遊びやピクニックなど、現在も人々の憩いの場として楽しまれている。
過去は遊園地として、現在は大型公園として、今も変わらず人々を楽しませてくれる田園調布の特別な場所として存在し続ける田園調布せせらぎ公園。この美しい絶景や、交流の場は人々のドラマが積み重なり、いつまでもこの場所にあり続けるのだろう。