- マガジン
- その天に地に、人々は何を見る?多摩川治水記念碑

その天に地に、人々は何を見る?多摩川治水記念碑

多摩川浅間神社の脇には4mに及ぶ大きな石碑がそびえ、行き交うものを見下ろしている。この石碑には「多摩川治水記念碑」という文字が刻まれているが、この石碑にはそのストーリィが刻まれているのだ。
ーーーーーーーー
スティッキーズ内 多摩川治水記念碑リンク
ーーーーーーーー
多摩川と玉川
大田区民でなくとも多くの人々が知っている多摩川であるが、その名称の由来は実はよくわかっていなく、諸説ある。
7世紀頃の万葉集東歌には「多麻河」として登場する。また、835年の官符では丸子の渡し近傍より「武蔵国石瀬河」と呼称されている。さらには上流の「丹波川(たばがわ)」との近似はよく言われることから、江戸時代には同音の字を用いて玉川(たまがわ)の呼称が多かった。
現在にも二子玉川駅などにその文字は残っている。
このように、名称に諸説のある多摩川だからこそ幾つもの伝説を生んでいる。
代表的なものは、池上本門寺に深く関わりを持つ日蓮聖人である。
入滅の前、日蓮聖人は、多摩川を渡り、池上本門寺にあった館へ辿り着いた。その後、釈迦の入滅図に沿うように、日蓮入滅図が多く作成され、その舞台には多摩川が描かれていた。
また、幾つもの渡し舟があり、これらは石碑として現在にも語り継がれている。それらの渡し舟には幾つもの土着神話が語られている。
こういった、伝承の数々は多摩川が急勾配な川であることから「あばれ川」として人々に広がっていたところも起因しているように思われる。
続く水害、住民運動
前述のように、多摩川は1688年から1874年まで架橋が制限され、渡し舟が利用されていた。また、川が氾濫するたびに川の形が変わっていったため、川の両岸に同じ地名をもつ場所があるのだ。
古くから作られていた堤防も、何度も決壊し、その都度水害に見舞われていたと言われている。
その中でも1910年の大水害は、近代多摩川水害史上最悪と言われており、天災と人災が重なり起きたものとされていた。
治水を求める住民の声は次第に高まっていく。1914年9月16日未明、議員 秋元喜四郎は、近隣各村民の数百名とともに、大挙して神奈川県庁に陳情に出向いた。県知事との面会は許されたのだが、知事は、当時は大挙しての陳情は取り締まりの対象となっており説諭するのみで、築堤については「考究中」を繰り返した。
全員が取り締まりを免れるためアミガサを付けていたことから、事件は「アミガサ事件」と呼ばれ、報道されることとなった。
そして治水へ…。
その後、新しく着任した神奈川県知事は要望を受け入れ、1916年から工事が開始された。
当時の県知事である有吉忠一は、東京府内務省の反対運動に関せず、東京府側が妥協することにより10月に堤塘が完成した。
1918年から15年の年月をかけ、内務省直轄の本格的な多摩川下流改修工事が始まった。途中の関東大震災による遅延などのアクシデントが起きたが、1933年末ごろに竣工・改修がなされたのだ。
この後、川は水害のあるものの、氾濫は少なくなり、堤防が決壊するなどの被害は発生していない。
現在でも河川敷が水に飲まれる事はあるが、この堤防は現在も人々を川の水害から守り続けているのだ。
治水記念碑が見守り続ける天と地に
多摩川治水工事完了時に、国が建立したものがこの多摩川治水記念碑だ。
この石碑の裏には工事に関与した人々の名が刻まれている。
治水工事に合わせ、多摩川には桜の木が植樹され、戦後復興にも、この桜が入っており、現在の春には美しい満開の桜並木を魅せてくれる。
観光客や花見客で賑わうこの桜並木を、人々を、ときに人々を悩ませ、喜ばせる天をこの多摩川治水記念碑は工事関係者達とともに今もこの場所で見守り続けている。