大森の「森」

のび太「あたたかいひだまりにねころんでいると、葉ずれの音や小トリの声が、なぐさめてくれるようで、いやなことも忘れてしまう」
小学館発行 藤子・F・不二雄ドラえもん35巻16話『森は生きているより』

 

のび太は何かがあると、学校の裏山に行く。ジャイアンにいじめられたり、テストで0点を取ったり嫌なことがあると、学校の裏山に駆けこんだ。
また、裏山からの景色を眺めて、日本の経済のことをドラえもんやジャイアン、しずかちゃんスネオと話したりもした。

小学館発行 藤子・F・不二雄 ドラえもん「のび太の日本誕生」より

 

森は神聖なものである。

一昨年、早稲田予備校の早稲田クラスで現代文の講義をした。その時の書籍の内容もたまたま「森」だったのでその記事も合わせて書いてみたい。
扱った著書は中沢新一著『森のバロック』である。内容は明治政府の行われた神道化政策により森は解体されてしまったという内容である。一部引用してみよう。

『山や森や寺社の内域には公の権力の浸透できない場所が取り残され、神仏がそれを聖別していた』『長いこと人々は神社の森そのものに神聖を感じ取っていた』
『森の神聖の根源はそこが秘密儀に満ちた曼荼羅であったからである。ところが今や、国家が神道の名においてその内部空間の曼荼羅の解体を推し進めている。(中略)神々の保護失った森の樹木はただの経済商品となるだろう』

要するに、明治政府の神仏分離政策(皇室系統の神とその他の神仏を分離し、皇室系統の神だけが神様だからという思想を国民に啓蒙していく政策)の裏には無数の森の解体があり、それによって日本人が大切にしていた森への神聖観がなくなり、木は商品になったと中沢氏は嘆いているのである。
たしかに、敗戦後、森を切り開き、木材を輸出し、集合住宅を作ったり、ゴルフ場をつくったりして、めざましい経済発展をおこした。

ところで、中沢氏は森を「秩序をもったカオス」「秘密儀の場」と表現している。さらに日本人の信仰が国家神道だけに単一化された状態を「ハードな体質のコスモス」と表現していた。私は上記の言葉のセンスに鳥肌が立った。なぜ鳥肌が立ったかはここに書くと現代文の講義になってしまうのでやめとこうと思ったが、一つだけいうなら「秩序をもったカオス」とは、昔の森は「神神のルールがありながも混沌とした多種多様な神が混在していたのが森だった」ということだ。つまり「マンダラ」なのであり、森は曼荼羅だったのだ。あんなに神様がいるのにどうして木など大量に伐採できようか。神社から賽銭泥棒の罪より何倍も重い。
尚実際の入試問題ではここが設問になっている。講師としては「いいとこ聞くな~・・さすが早稲田!」と思った記憶がある。
(早稲田大学政治経済学部 現代文入試)

さて、ドラえもんに記事をもどそう。
さきほどの明治の神道化政策により、ドラえもんの学校の裏山は一部を除き、23区からは消えてしまったことだろう。

一部を除き・・・

しかし、その一部が、私の街、大田区中央4丁目だとしたら・・・。

私の街では、学校の裏山はまだ存在していた。

それも、大田区中央にある私の自宅から歩いて5分以内に、まさに「学校の裏山」が存在していたのだ。

通称佐伯山緑地である。

ここは佐伯氏の私有地であったが、平成12年に大田区が佐伯氏より3千平米の土地の寄付を受け、公園用地として管理している緑地である。

佐伯山緑地を見守る佐伯矩博士の胸像
佐伯 矩(さいき ただす)
佐伯矩は医学から栄養学を独立させ、栄養学研究所、栄養士制度を発展させた功績から栄養学の父と呼ばれ、世界で初めての栄養学校である「佐伯栄養専門学校」を設立した。
大正9年 国立栄養研究所初代所長
大勝13年 佐伯栄養学校創設(栄養士誕生)
昭和2年 国際連盟初回交換教授
昭和9年 日本栄養学会創始
 

 

大森第三中学校の裏手に位置し、まさに学校の裏山なのである。

学校の裏門の前から遊歩道があり、これを上っていくと先ほどの森の中に入る。

学校の裏山こと佐伯山からの景色。

実は佐伯山が佐伯山緑地として遊歩道を整備したのは最近である。私が子供のころは、カラスと蛇とオオカミがいるという噂の山であった。
もちろんいたずら小僧は佐伯山にはいり探検する。ここは「ガチでヤバイ山」ということで、入山したのがバレると大人達から大目玉をくらうのであった。
一度4年生で佐伯山に入山したことがあった。近所のまきちゃん(仮)とひろし(実名笑)と私で入山を試みた。ある裏口から山に入ったとたん。蛇が巻きついてきた。。。。

三人で悲鳴を上げて一目散に下山した。しかし、その悲鳴が大量のカラスの怒りに触れて、上空をカラスで覆われた。
ほんとに死ぬかと思った。

その年、2月14日の僕の下駄箱には、毎年くれるまきちゃんからのチョコはなかった。。。

これが原因かは不明だが。。。(笑)   後悔、後にも先にも立たず。

 

近代土木遺産リストにも掲載される、六郷水門の美々

雑色駅を出ると、水路の匂いが郷愁を心の奥から滲み出される。遠い昔に忘れていた子供の頃の気持ちが喉元から溢れ出るようにも感じる。
この雑色駅のある地はもともと多摩川に注ぐ水路がいくつもあったのだという。
都市開発により街も水路もその姿を変え、街は賑わい、水路は地下へと潜っていった。雑色駅前商店街を多摩川側へ歩いていくと水門通り商店街に行き当たる。この通りはその水路の通り沿いに栄えた商店街であり、昔ながらの商店や、奥には住宅が数多く身を寄せている。
 
■幻の六郷用水六郷水門
 
水門通りを通っていた用水路は、かつて六郷用水と呼ばれていた。
1597年に開通されたこの水路は多摩川を水源に、狛江市から世田谷区を通り大田区を通り抜ける23kmに及ぶ用水路であった。
流れる水は農業を主に利用され、その利用範囲は1500haほどになると言われている。
1945年ごろ、水路が廃止され、街の宅地化は速度を上げる。1970年代頃にはこの六郷用水は大半が埋め立てられ、残りも下水道に姿を変えていった。
現在では、この流路を見ることができないため、幻の六郷用水とも呼ばれている。
 
★TIPS:六郷用水の再現水路
中原街道から東、多摩川線の多摩川駅から鵜の木駅付近には湧き水を利用した用水が再現されている。当時の用水路の心を見るためにはこの場所も一見の価値があるといえる。
 
多摩川を水源とする、ということから以前の多摩川治水記念碑記事を思い浮かばれる。
 
 
六郷用水と多摩川が交差する場には治水の中で誕生した六郷水門に行き当たるのだ。
1931年に竣工したこの水門は六郷用水の末流としてだけではなく、池上・矢口・羽田一部の地域からの生活用水の排水を処理するために利用されていた。
 
六郷水門、その建築美
 
六郷町の町章をあしらった架橋は水門と舟溜りを隔てている。堤内の舟溜りには現在も緊急時の船が停船されており、雑色運河とも呼ばれたこの場所の時代を現代にも残している。
時代背景からも考えられる、レンガとコンクリートで作られたこの水門は大正末期から昭和初期のロマンあふれる建築のように思われる。
80年以上の年月を経てできたその深い味わいは、都市風景の中にあまりにも自然に溶け込んでいた。
水門付近の多摩川堤防は夜になると、川崎側の街や羽田方面の大師橋の美しい景色を眺めることもできる
堤防を雑色の街側に見下ろすと排水機場を見下ろすことが出来る。
この場所は現役最古の排水機場で、六郷水門の建築のあしらいが、この排水機場にも残されている。六郷水門にも利用されている金森式鉄筋煉瓦の朱と屋根の青がレトロなコントラストを際立たせる。
治水事業の中のこだわりがそこかしこに隠されているのだ。
 
★TIPS:金森式鉄筋煉瓦
鉄筋煉瓦造。丸鋼の鉄筋にコンクリートとレンガで補強された構造法。この構造法は多摩川改修事務所の所長でもあった金森誠之氏により考案された。
そして、この構造法を発明した金森誠之氏はスティッキーズでもインタビューをさせていただいた金森誠也氏の父にあたる。
 
金森誠也氏のインタビュー記事はこちらから
↓↓
 
 
■南六郷緑地公園に残る、前世紀
 
水門通りへ戻る途中に、南六郷緑地公園へと行き当たる。
水門通りからこちらへ流れてくると通ることになるのだが、この公園はぜひ六郷水門を鑑賞した後に楽しむことをおすすめしたい。
六郷用水の排水口であった場所を親水公園化したこの場所は人口運河を模した創りを成されている。
人口運河水路の起点には水門を模した滝が作られており、多摩川堤防のようなレンガ道が続いている。レンガ道を歩いていくと池に行き着く、その池のデッキを模した休憩所には六郷水門橋のあしらいを踏襲した創りを見ることができる。
この休憩所自体も金森式鉄筋煉瓦のような作りになっているため、排水機場を模していると思われる。
六郷水門の直ぐ側にある南六郷緑地公園、ある意味この公園自体が六郷水門の記念碑として今も息づいているのだ。
前世紀に作られ、現在も人々を見守る時代を越えたこの水門を現在もこの場所から眺めることが出来るのは、ある意味での奇跡に違いない。
時の流れで消えていくもの、過去の遺物を復興させるもの、この場所の郷愁感は幾つもの人のロマンとドラマが創り、映し出しているのかもしれない。

平安ロマンは生きているか?六郷神社今昔物語

日本の歴史は文化の深さや考古学的発掘によりその長さを実証しているが、約1000年に及ぶその歴史を体感できる場所が、大田区に存在する。

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スティッキーズ内 六郷神社リンク
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六郷神社は約1000年に及び大田区を見守り続けている日本の古くも荘厳な神社の一つだ。

<六郷神社入口写真(夕暮れ)>

 

六郷八幡宮と源氏

六郷神社の由緒は社伝を紐解くと天喜5年(1057年)に遡る。源頼義、源義家ら父子が、この場所にある大杉の梢高くに源氏の白旗をかかげ軍勢をつのり、石清水八幡宮に武運長久を祈願した。
すると軍の士気が大いに高まり、 奥州十二年合戦とも呼ばれる「前九年の役」で勝利したため、凱旋後に石清水八幡宮の分霊を勧請し八幡宮を創建したとされる。このことから江戸時代には「六郷八幡宮」と呼ばれている。

★TIPS:前九年の役
この合戦の名称には諸説あり、源頼義が奥州十二年合戦に本格介入した年を基準として戦乱を9年間と計算したという説や、が奥州十二年合戦を後三年の役(1083年-1087年)と合わせた名称と誤解され、12年から3年を引き前段について「前九年の役」と呼ぶようになったなどの説があるが、この合戦自体の年数計算が諸説あるために書籍により合戦名が幅広く使用されている。
現在では前九年の役と呼ばれることが多い。

文治5年(1189年)源頼朝も奥州藤原氏との合戦時、祖先にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191年)社殿を造営するよう梶原景時に命じた。 社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る浄水石は、頼朝が奉献したものといわれており、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれている。

このような文献や社宝により六郷神社の創設には源氏が深く関わっていることが読み解けるのだ。

神門前の太鼓橋

 

家康の発給した御朱印状の由縁と現代に至るまで。

天正19年(1591年)徳川家康は、寺社の所領として確定させる神領として十八石を寄進する公的文書である朱印状を発給した。
さらに慶長5年(1600年)家康は神社近傍を流れる六郷川に架橋(六郷大橋)を命じる。
竣工を祈る願文を奉り、この神社の神輿によって渡初式を行ったと伝えられている。
このように徳川家との縁が深いためか、神紋として八幡宮の巴紋とあわせ三つ葉葵紋を用いている由縁になっている。
江戸時代には、東海道をへだて西側の宝朱院(御幡山建長寺)が別当寺となっていたが、明治維新の倒幕運動により、これが廃されることとなった。
明治5年(1872)東京府郷社に列格し、明治9年より六郷神社と称して今日に至っている。

六郷八幡宮の神々と六郷神社の神

六郷神社は、応神天皇(誉陀和気命・ほんだわけのみこと)を祀る八幡となっている。
八幡は、日本でもっとも多くまつられている神社で、その数は全国で4万社を超える神社の一つだ。
一般に八幡の祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、 比売大神(ひめおおかみ)の三柱の神々であり、 六郷神社でも昔はこの三神を祀っていたと言われているが、時期不明の曳船祭で、一座の神輿が上総(かずさ)の国に流されてしまい、もう一座の神輿はことのほかの荒神で、しばしば祟りを受けることがあったと言われ土中に埋めてしまった、と江戸時代より書物などで伝えられている。

★TIPS:六郷神社で行われていた曳船祭
関東三大船祭りの一つといわれた六郷神社の曳船祭。
江戸時代から六郷川にくりひろげられた、じつに勇壮華麗の一大凱旋として賑わいを魅せていた。
羽田、大師河原が氏子であった関係から、宮神輿を御座船に乗せ、四艘の足船が長さ150尺の大綱で曳く後から、各町会の迎え船と送り船が、囃子の音とともに勇ましくのぼり旗を風になびかせて無数の観覧船と共に川を下っていったという。

現在の本殿は、享保4年(1719年)に建てられたもので、三柱の神様を祀っている建築様式になっており、応神天皇一柱を祀るようになったのは、一座の神輿が流され、もう一座の神輿が地中に埋められて以後のことではないかと言われている。
八幡は、源氏が氏神にしてから武神として有名になったが、 古代大陸文化をとりいれてわが日本の発展を築いた偉大な文化の神、殖産の神とも讃えられている。

 

1000年の時をこえ、現代にのこる六郷神社

1000年というあまりにも途方もない時間をこの神社は歩んできた、ときに合戦の戦勝祈願として、またさらには文化発展の祈願や新建築物の安寧祈願として、1000年の間多くの人々の願いを聞き続けている。
現代に生きる我々の中にも未だ、神社という場所は祭りや初詣など行事からもわかるように、どこか心の置き場所のようになっている。
冬の大祓を間もなくに控えた六郷神社は、もう次の1000年に向かい歩を進めているのかもしれない。

恋の炎にその身も焦がした、大罪のヒロイン八百屋お七と密厳院

時は天和3年、一人の少女が火刑に処された。
この少女こそ世に有名な八百屋お七である。
お七伝説は諸説あるが、有力である説をあげると、天和2年の12月28日、天和の大火にて焼け出されたお七の一家は寺院に避難したと言われる。
避難寺生活の中でお七は寺小姓と恋に落ちた。現代で言う「吊り橋効果」というものもあったのかもしれない。
悲劇の中でやさしく迎え入れられた先の若者は、お七にとってはとても魅力的に見えたのだ。

 

実家でもある八百屋が建て直されると、お七一家は寺を出て、それぞれの生活に戻っていくはずであった。
しかし、お七の恋心は距離・時間というものがその恋心をより燃え上がらせたのだろう、彼女は寺小姓をずっと忘れられなかったのである。
恋の炎、という言葉はどこから生まれたのだろうか、その言葉の通りお七は愛する人とまた会いたい、共に暮らしたいという気持ちを薪にして自宅に放火した。

この放火はすぐに消し止められ、大火になることはなかったが、現代においても江戸の時代にあっても、放火は大罪であった。
ロミオとジュリエットのような悲劇のヒロインであったお七は捕縛され、付火の大罪を背負い、火刑に処されることになる。
処刑の場所は「鈴ヶ森刑場」、現代まで語られることになる彼女のストーリィはこの場所で幕を閉じた。

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スティッキーズ内 鈴ヶ森刑場リンク
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多くの書物作品や劇、歌などで語られる八百屋お七の物語であるが、その史実は彼女の火刑で燃え尽きてしまったかのようにその姿を表さない。
「天和笑委集」という作者不明の江戸前期の見聞記にて、物語風に火災現場で活躍した人や放火犯人の様子などが描かれていたが、かいつまむと「恋に身を焦がし、火を付け、自らも火あぶりにされた八百屋の娘、お七」という程度だ。
この史実の少なさというミステリアスな要素が、お七の物語性の広さを色づけているのかもしれない。

悲劇の大罪ヒロイン、八百屋お七であるが、元来大罪人は供養されず無縁となるのが江戸の常であった。
お七も他の罪人たちと同様に無縁仏となるはずであったが、彼女の恋物語はその罪を越え、多くの人々の同情を集めたのだ。

その一心な恋心こそが、小火で済んだ付火とは別に、人々の心にこそ火を付けたのかもしれない。
鈴ヶ森刑場の近くに真言宗寺院・密厳院がある。お七の亡骸はこの場所に埋葬されたという伝承があり、お七の住んでいた小石川の念仏講の人々が、彼女の悲劇に同情し、三回忌にあたる貞享2年にお七地蔵を建てたという伝説もあり、その地蔵は現在も密厳院にある。

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スティッキーズ内 密厳院リンク
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お七の物語は多くの人々に語り継がれ、今も残っている。
消して許されざる罪を犯す結末となった恋の物語だが、彼女の思いは多くの人々を感傷に浸らせた。
密厳院にポツリとあるお七地蔵にも、そのストーリィの片鱗が隠れているのだろう。

住宅街にひっそりと現れる歴史の置き土産、鵜の木大塚古墳

雪が谷大塚駅を下車し大田区立調布大塚小学校方面へと向かい7分ほど歩いたところに、住宅街の中に突如として鳥居が出現する。
ここが鵜の木大塚古墳と呼ばれる史跡だ。

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スティッキーズ内 鵜の木大塚古墳リンク
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大田区には亀甲山古墳など大型の古墳がいくつも存在する。
この鵜の木大塚古墳もそんな古墳の一つなのだ。
大田区内の「荏原古墳群」と呼ばれるものの中で最も東に位置している。旧鵜の木村の飛び地にあったため「鵜の木大塚古墳」という名がついたこの古墳の入口の稲荷神社は鳥居が連立し、その荘厳性を保っているようだ。
先述の通り、小学校付近の住宅街にあるこの古墳ではあるが、鳥居をくぐると木々のざわめきが勝り、その神秘的な音により喧騒は遠くなる。
古墳といえば、日本における古代のピラミッドのようなものと言う印象が強いだろう。

★TIPS:古墳
形状、大きさは様々であるが、古代の日本の豪族たちの墳墓の一種とされている。発掘が許可されていない古墳が多いため、その形状や土などが年代や文化を推察するための大きな手がかりともなる。発掘されている古墳からはさまざまな歴史的文化物が見つかっている。

多摩川沿いの起伏の激しい土地が多い周辺だが、この古墳の近辺は実は平坦な土地になっている。
都の旧跡としても指定されているため、参道の中には鵜木大塚古墳を説明する看板も存在した。

立ち並ぶ鳥居を抜けていくと、現在では使用されていないであろう古い汲み上げ式の井戸があった。
年代を感じさせるその佇まいからもこの神社と古墳がそれほどの昔から存在するであろうことが推察できる。
鳥居を抜けると更に石段があるのだが、おそらくこの石段はすでに古墳の一部なのだろう。亀甲山古墳と似た創りに、墳墓と神社の関係性の深さが見えた。

石段を登りきるとこじんまりとした稲荷の祭壇がある。コンクリートの塀に囲まれているため、形状がつかめないが、この先に古墳頂上へと続く道があるようだが、その道は舗装されておらず危険のため立ち入り禁止になっているようだ。

石段の頂上から下の参道を見ると、この平坦な地形にしてはだいぶ高所に当たる事がわかる。
木々のトンネルは、そこはかとなく池上本門寺の石段を思い起こさせた。
住宅地の真ん中に、このような場所があり、まるで外界と分かたれたように生えている木々は、やはり神秘的だ。

神社をあとにし、古墳の外周を沿うように歩くと古墳裏手へ回ることができる。
裏手からはまるで盆栽アレンジメントのような円形の古墳が見え、やはり日常の中に突然現れるこの場所の神秘性を底上げしているようだ。

旧跡たちはつどつど歴史の置き土産と呼ばれることが多く、たしかにこの場所もそんな歴史の置き土産の一つなのだろう。
人々の生活を、何代も見守り続け、それは未来へと続いていく。
文献が多く残っているわけではなく、当然のようにこの場所に残り続ける鵜木大塚古墳は、先の未来まで人々の生活の中にあり続けるのだろう。