水神の森の面影を求めて。水神公園に残る湧水の美流

御嶽山駅を下車し、東側へ5分ほど歩くと大型の保育園が見え、それを目印に辻を左へ入るとなだらかな上り坂を登ることができる。
さらに一つ目の十字路を右に仰ぐと大田区立水神公園にたどり着けるのだ。

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スティッキーズ内 大田区立水神公園リンク
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この周辺地域はその昔、水神の森と呼ばれていた。
その名の通り、水神の加護があったかのように豊富な湧水に恵まれていたのだ。
大森周辺もそうであるが、広範囲の湿地帯ならではの恵みとも言える。
青々と覆い茂った緑の中、多くの水資源に恵まれていた場所は、昔から多くの人々に愛されていたと思われるこの場所は、現在公園としてその面影を残している。

この水神公園は小さな公園だが、その内部は湧水公園にふさわしいものとなっていた。
塀を挟んで道路沿いの外側には湧水のせせらぎを聞くことのできる小池がある。この小池は水神様の洗い場と呼ばれ、当時の百姓が農具や野菜を洗う場所として使われていたものを復元する形で作られており、現在は休日や午後の昼下がりに親子連れが水辺で涼む憩いの場にもなっているようだ。


日中の開放以外閉ざされている鉄門の内側はまさしく湧水公園らしい緑と水の香りがする。
木漏れ日のなか穏やかなときを過ごせる仕様となっており、目立った遊具は存在しない。
また、水遊びをすることを推奨していない公園のため、散歩道や休憩所として利用する人々も多いようだ。
周辺でも多くの湧水があり、多くの公園地で活用されている。
この公園の特徴的なところは、公園の内側の少し小高い場所に井戸があるのだ。
古式ゆかしい石の井戸はまさしく水神の森と呼ばれていたこの地の名残を表しているのだろう。

住宅街が整備され、現在は森ではなくなってしまったこの場所にも、当時の名残を感じさせるあしらいがいくつもあるようだ。
小さい公園の中にも、時代が巡っても変わらないものが多く残っていることを大田区では深く感じる。

古来の人々の愛した場所が、現在も多くの人々を受け入れており、きっと現在の思いも未来へとつながってゆくのだろう。

洗足池

紅葉にはまだ早い、10月18日の昼過ぎ。
親父が私の手を握り、池上駅に向かった。
どこに行くのかと聞く私に、いつもとは違う優しい眼差しで、親父は、いいから着いてくるように私に伝えた。
売店で菓子を買ったり、電車内でそれを食べることを品がないと特に嫌っていた父だが、その日に限って、好きな物を買っていいと言った。
私はかねてより気になっていたブルーベリーガムをねだり、それを口にして、小言王の父の顔色をうかがいながら、池上駅のホームに立って緑の電車を待っていた。
相変わらずの古いモーター音を轟かせ三両の古びた電車がホームに滑り込んできた。
それに乗り込で、外の景色とガムにご満悦の私に、父は優しさ8で微笑んでくれた。
 
降車したのは洗足池駅だった。
私は、すぐに察した。
 
以前より母に話していた、洗足池のボートに私を乗せてくれるのだと。
 
ガムの味がなくなり、2枚目を口にしようとした時、父がアヒルの足こぎを指差した。
私は、一瞬目を丸くして、そして、目を細めた。
父は、洗足池のボートは絶対に手漕ぎボートでないと乗せないと、以前より宣言していたからだ。
 
どういう趣旨か知らないし、いまだにそれを確かめようという気が起きないなのだが、例えば、ファミリーレストランよりも渋い蕎麦屋を、遊園地よりも、池上梅園に連れて行く父なのであるか、それは何となく子供なりに理解していた。
その父がアヒルの足こぎを指してくれた。
 
アヒルは洗足池の真ん中の小島に向かった。
そろそろ半袖では肌寒い季節になっていて、寒そうにしている私に父は上着をかけてくれた。
 
小島にアヒルをつけた父は、私に優しさ5厳しさ5の視線を投げかけた。
 
 
私のはてなに、父は静かに語りかけた。
 
「お母さんはおまえだけのお母さんじゃなくなるんだ。」
 
 
 
「ん?何で?」
 
 
 
「今日はお父さんがカレーを作ってあげる。」
 
「、、、、別にいいけど、、、」
 
「今日はお母さんは帰ってこないんだ。」
 
「、、え?、、もう帰ってこないの?」
 
 
「違うよ、そうじゃない。。今日と、、そうだな、、一週間は父さんとバーバとジィジと3人だ。」
 
「なんで??」
 
「、、それとな、これからお前はたくさん我慢しなくてはいけなくなる。欲しいオモチャも、ケーキも、少しだけ譲らなくてならなくなる。」
 
「、、、え?、、、やだよ」
 
 
「、、そうだな。でも、父さんもそうだった。いつまでも赤ちゃんじゃいられないんだぞ。。わかるか?」
 
「、、何??なんでー?うれしくないよ。」
 
帰りに道、バーモントカレーを買って、誰もいない暗い家に帰った。
その時は、もうガムの喜びも、アヒルの楽しさも全て吹き飛んでいた。
 
「、、お母さんは??ねえ?父さん、、」
 
私が涙ぐんだその時、奥の部屋から祖母が出てきて、私を優しさ10で抱きしめてくれた。
 
その日は、半べそをかきながら、祖母の腕で抱かれて眠りについた。
 
夜中、父の歓喜の声と、祖母の着替える音で、目が覚めた。
 
「お袋!男の子だって!男の子だってさ!!」
 
「いいからあんた、すぐ日赤病院いかなきゃ!」祖母が着替えながら、大声で父をどやしつけていた時だった。
 
半分寝ていた私は、父に抱きかかえられ、次の瞬間、三回ほど程宙に舞った。
 
「おい、弟だ!弟が出来たぞ!!楽しいぞ!嬉しいぞ!」
 
弟が産まれた。
 
その日の記憶は、鮮明に覚えている。
バーモントカレーのハチミツ味も、ブルーベリーガムの味も。
 
34年後の洗足池も、相変わらずボートの上に人生が行き交っているのだろうか。
皐月の池上線からそんなことを思って五反田へ向かった。
 
変わらないこと、それも大田区の魅力。

近代土木遺産リストにも掲載される、六郷水門の美々

雑色駅を出ると、水路の匂いが郷愁を心の奥から滲み出される。遠い昔に忘れていた子供の頃の気持ちが喉元から溢れ出るようにも感じる。
この雑色駅のある地はもともと多摩川に注ぐ水路がいくつもあったのだという。
都市開発により街も水路もその姿を変え、街は賑わい、水路は地下へと潜っていった。雑色駅前商店街を多摩川側へ歩いていくと水門通り商店街に行き当たる。この通りはその水路の通り沿いに栄えた商店街であり、昔ながらの商店や、奥には住宅が数多く身を寄せている。
 
■幻の六郷用水六郷水門
 
水門通りを通っていた用水路は、かつて六郷用水と呼ばれていた。
1597年に開通されたこの水路は多摩川を水源に、狛江市から世田谷区を通り大田区を通り抜ける23kmに及ぶ用水路であった。
流れる水は農業を主に利用され、その利用範囲は1500haほどになると言われている。
1945年ごろ、水路が廃止され、街の宅地化は速度を上げる。1970年代頃にはこの六郷用水は大半が埋め立てられ、残りも下水道に姿を変えていった。
現在では、この流路を見ることができないため、幻の六郷用水とも呼ばれている。
 
★TIPS:六郷用水の再現水路
中原街道から東、多摩川線の多摩川駅から鵜の木駅付近には湧き水を利用した用水が再現されている。当時の用水路の心を見るためにはこの場所も一見の価値があるといえる。
 
多摩川を水源とする、ということから以前の多摩川治水記念碑記事を思い浮かばれる。
 
 
六郷用水と多摩川が交差する場には治水の中で誕生した六郷水門に行き当たるのだ。
1931年に竣工したこの水門は六郷用水の末流としてだけではなく、池上・矢口・羽田一部の地域からの生活用水の排水を処理するために利用されていた。
 
六郷水門、その建築美
 
六郷町の町章をあしらった架橋は水門と舟溜りを隔てている。堤内の舟溜りには現在も緊急時の船が停船されており、雑色運河とも呼ばれたこの場所の時代を現代にも残している。
時代背景からも考えられる、レンガとコンクリートで作られたこの水門は大正末期から昭和初期のロマンあふれる建築のように思われる。
80年以上の年月を経てできたその深い味わいは、都市風景の中にあまりにも自然に溶け込んでいた。
水門付近の多摩川堤防は夜になると、川崎側の街や羽田方面の大師橋の美しい景色を眺めることもできる
堤防を雑色の街側に見下ろすと排水機場を見下ろすことが出来る。
この場所は現役最古の排水機場で、六郷水門の建築のあしらいが、この排水機場にも残されている。六郷水門にも利用されている金森式鉄筋煉瓦の朱と屋根の青がレトロなコントラストを際立たせる。
治水事業の中のこだわりがそこかしこに隠されているのだ。
 
★TIPS:金森式鉄筋煉瓦
鉄筋煉瓦造。丸鋼の鉄筋にコンクリートとレンガで補強された構造法。この構造法は多摩川改修事務所の所長でもあった金森誠之氏により考案された。
そして、この構造法を発明した金森誠之氏はスティッキーズでもインタビューをさせていただいた金森誠也氏の父にあたる。
 
金森誠也氏のインタビュー記事はこちらから
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■南六郷緑地公園に残る、前世紀
 
水門通りへ戻る途中に、南六郷緑地公園へと行き当たる。
水門通りからこちらへ流れてくると通ることになるのだが、この公園はぜひ六郷水門を鑑賞した後に楽しむことをおすすめしたい。
六郷用水の排水口であった場所を親水公園化したこの場所は人口運河を模した創りを成されている。
人口運河水路の起点には水門を模した滝が作られており、多摩川堤防のようなレンガ道が続いている。レンガ道を歩いていくと池に行き着く、その池のデッキを模した休憩所には六郷水門橋のあしらいを踏襲した創りを見ることができる。
この休憩所自体も金森式鉄筋煉瓦のような作りになっているため、排水機場を模していると思われる。
六郷水門の直ぐ側にある南六郷緑地公園、ある意味この公園自体が六郷水門の記念碑として今も息づいているのだ。
前世紀に作られ、現在も人々を見守る時代を越えたこの水門を現在もこの場所から眺めることが出来るのは、ある意味での奇跡に違いない。
時の流れで消えていくもの、過去の遺物を復興させるもの、この場所の郷愁感は幾つもの人のロマンとドラマが創り、映し出しているのかもしれない。