鷲神社の熊手で、来年も商売繁盛

池上本門寺のお会式で万灯を眺めながら、酷暑が続いた夏も過ぎ、大田区にも秋の訪れが…と思ってから数日。

あっという間に冬の始まりを感じさせる季節になると、大森の鷲神社では酉の市が開かれます。

今年は11月1日(一の酉)、11月13日(二の酉)、11月25日(三の酉)と三の酉まであります。

大森の駅から歩いて5分ほどの鷲神社にはたくさんの熊手が飾られています。

古くは収穫祭として参拝した人目当てに農機具などを販売したことから、熊手は運をかきこむという縁起ものとされ、商売人の間でもてはやされたことから今に至っているといわれています。

鷲神社は大きな神社ではありませんが、お酉様への参拝と熊手を求める方で大賑わい。

大森駅から鷲神社へ向かう途中にはミルパ商店街があり、大きなアーケドの下ではお好み焼きに、焼きそば、カステラや七味など、たくさんの露店がが連なり、こちらも多くの人でにぎわっています。

近年アーケードに出店する露店の数が減ったようにも感じますが、道行く人の表情には年末の慌ただしさの前のひと時の安らぎと、来年への希望がにじんで見えるような気がして、見ているだけでも心が温まります。

寒さ本番を迎えるこの時期、明日の商売繁盛を願いつつ、熊手を抱えて露店で熱燗を一杯なんて楽しそうです。

ちなみに、酉の市の日は鷲神社、商店街周辺は通行止めになっています。JR大森駅か、京急大森海岸駅が最寄り駅になりますので、そちらのご利用が便利ですよ。

 

水神の森の面影を求めて。水神公園に残る湧水の美流

御嶽山駅を下車し、東側へ5分ほど歩くと大型の保育園が見え、それを目印に辻を左へ入るとなだらかな上り坂を登ることができる。
さらに一つ目の十字路を右に仰ぐと大田区立水神公園にたどり着けるのだ。

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スティッキーズ内 大田区立水神公園リンク
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この周辺地域はその昔、水神の森と呼ばれていた。
その名の通り、水神の加護があったかのように豊富な湧水に恵まれていたのだ。
大森周辺もそうであるが、広範囲の湿地帯ならではの恵みとも言える。
青々と覆い茂った緑の中、多くの水資源に恵まれていた場所は、昔から多くの人々に愛されていたと思われるこの場所は、現在公園としてその面影を残している。

この水神公園は小さな公園だが、その内部は湧水公園にふさわしいものとなっていた。
塀を挟んで道路沿いの外側には湧水のせせらぎを聞くことのできる小池がある。この小池は水神様の洗い場と呼ばれ、当時の百姓が農具や野菜を洗う場所として使われていたものを復元する形で作られており、現在は休日や午後の昼下がりに親子連れが水辺で涼む憩いの場にもなっているようだ。


日中の開放以外閉ざされている鉄門の内側はまさしく湧水公園らしい緑と水の香りがする。
木漏れ日のなか穏やかなときを過ごせる仕様となっており、目立った遊具は存在しない。
また、水遊びをすることを推奨していない公園のため、散歩道や休憩所として利用する人々も多いようだ。
周辺でも多くの湧水があり、多くの公園地で活用されている。
この公園の特徴的なところは、公園の内側の少し小高い場所に井戸があるのだ。
古式ゆかしい石の井戸はまさしく水神の森と呼ばれていたこの地の名残を表しているのだろう。

住宅街が整備され、現在は森ではなくなってしまったこの場所にも、当時の名残を感じさせるあしらいがいくつもあるようだ。
小さい公園の中にも、時代が巡っても変わらないものが多く残っていることを大田区では深く感じる。

古来の人々の愛した場所が、現在も多くの人々を受け入れており、きっと現在の思いも未来へとつながってゆくのだろう。

初夏の木漏れ日に過ごす洗足池に映る人々の営み

初夏の日差しに誘われるように、私は区内散策に繰り出していた。JRを乗り換え東急池上線蒲田駅から15分ほど私鉄に身を委ねると、洗足池にたどり着く。
弱冷房のきいた車両から外に出ると、頬を抜ける緩やかな風と緑の匂いが鼻をかすめた。

駅前に広がる緑の景色の穏やか

洗足池駅を降りると、カフェやラーメン屋などの並びに面し、中原街道が通じている。
大田区の動脈のひとつでもあるこの車通りの多い道だが、意外にも都心のような埃っぽさを感じない。その答えはおそらく、中原街道の向こうに広がる洗足池の緑の景色によるものなのだろう。

カフェの窓際ではファミリーがランチを過ごし、洗足池の方を向き笑顔で語らっている姿が見えた。都内を走る自動車の生活と、休日を過ごす家族の生活が絶妙にリンクしているこの穏やかさが、すでに駅前で広がっていた。

 

池月橋から望む千束八幡神社という非現実

ヤナギやツツジが緑を彩る中原街道面の通りは、レンタルボートを借りるためのカップルやファミリーで賑わう。
談笑の中を洗足池の外周を沿うように西へ回る。
木漏れ日の下、通り沿いのベンチでは老夫婦が会話に花を咲かせていた。
洗足池の周辺は閑静な住宅街になっている。古くから存在しているであろう邸宅から新築の一軒家、アパートなどさまざまな生活が同居している。


池の外側に感じる人々の生活を思いながら歩を進めると、「池月橋」と名付けられた太鼓橋にたどり着く。
木々のフレームから当然のように現れるその景色はつかの間の非現実へといざなってくれる。
景観を第一に、とつくられたこの橋は2016年に架替工事が完了したのだが、この景色の中ではその真新しさを主張しすぎない。
陽の光を浴びた水面がキラキラと光を放ち、池月橋を優雅に照らす。更に奥には千束八幡神社の赤い鳥居が、はっと息を呑むような日本の風景を凛と締めていた。

もうすっかり馴染んでしまった緑の匂いのなか、すべての音を吸収するように千束八幡神社は静かに佇んでいる。
860年、旧千束郷の総鎮守として創建されたといわれるこの神社の静寂は確かにこの空間を見守っているような落ち着きを見せていた。

 

厳島神社を抜ける緑道でおこる人々の交流

束八幡神社を抜けた先に池に沿って開けた道がある。
この道は、洗足池駅付近の都心的なビル街と公園の緑が重なり、先ほどとは違う景色が目を楽しませてくれている。
のろのろと歩を進める私の横を、ランニング中のランナーが駆け抜けていった。洗足池を訪れるのは私のような散歩客や、ファミリー、カップルだけではないようだ。
確かにこの場所は道も広く平坦であるため、走るには都合がいい道と思われる。
この景色の中を走るのは体だけではなく、心を清め鍛えてくれるようだった。互いに邪魔にならない程度の気配りが嬉しく感じる。言葉はかわさなくとも、人々の交流がそこにあるのだ。
数名のランナーと気を配り合いながら歩いていくと厳島神社がある。

池北側の創建年代不明の神社が、永いときの中で埋没してしまったため1934年に現在の地に造営されたと言われている。
その建築の朱は緑の中に美しく映っていた。


小島に渡る途中、朱く美しい太鼓橋がある。何気なく橋を渡っていると、下から呼び声が届いてきた。ボートに乗ったファミリーの、小さな男の子がこちらに笑顔で手を振っていた。


その楽しそうな笑顔に思わずこちらも笑顔になる。生活の中ではなかなか味わえない自然な挨拶がここにあるようで、昔から変わらない大切なもののようでもあった。

 

過去現在未来、時代にとらわれないスタイルが集まる生活の場

緑道をこえると開けた公園と2017年より舗装がされた中原街道へ通じる新道が目に入ってきた。


公園の木漏れ日の下ではファミリーがレジャーシートの上で楽しげにピクニックランチをとっている。その付近では趣味の会がカメラを持ち寄り撮影を楽しんでいた。

この場所に訪れるさまざまな人々が年齢にとらわれない楽しみ方を過ごしている。ふと思えば、思いつきでこの地を訪れた私もそんな人々のひとりだった。
他人、自分にかかわらず多くの思いをのせ、生活が集い、大切な時間がゆっくりと流れていく場所としてこの先も人々のつながりが積み重なっていくのだろう。

洗足池

紅葉にはまだ早い、10月18日の昼過ぎ。
親父が私の手を握り、池上駅に向かった。
どこに行くのかと聞く私に、いつもとは違う優しい眼差しで、親父は、いいから着いてくるように私に伝えた。
売店で菓子を買ったり、電車内でそれを食べることを品がないと特に嫌っていた父だが、その日に限って、好きな物を買っていいと言った。
私はかねてより気になっていたブルーベリーガムをねだり、それを口にして、小言王の父の顔色をうかがいながら、池上駅のホームに立って緑の電車を待っていた。
相変わらずの古いモーター音を轟かせ三両の古びた電車がホームに滑り込んできた。
それに乗り込で、外の景色とガムにご満悦の私に、父は優しさ8で微笑んでくれた。
 
降車したのは洗足池駅だった。
私は、すぐに察した。
 
以前より母に話していた、洗足池のボートに私を乗せてくれるのだと。
 
ガムの味がなくなり、2枚目を口にしようとした時、父がアヒルの足こぎを指差した。
私は、一瞬目を丸くして、そして、目を細めた。
父は、洗足池のボートは絶対に手漕ぎボートでないと乗せないと、以前より宣言していたからだ。
 
どういう趣旨か知らないし、いまだにそれを確かめようという気が起きないなのだが、例えば、ファミリーレストランよりも渋い蕎麦屋を、遊園地よりも、池上梅園に連れて行く父なのであるか、それは何となく子供なりに理解していた。
その父がアヒルの足こぎを指してくれた。
 
アヒルは洗足池の真ん中の小島に向かった。
そろそろ半袖では肌寒い季節になっていて、寒そうにしている私に父は上着をかけてくれた。
 
小島にアヒルをつけた父は、私に優しさ5厳しさ5の視線を投げかけた。
 
 
私のはてなに、父は静かに語りかけた。
 
「お母さんはおまえだけのお母さんじゃなくなるんだ。」
 
 
 
「ん?何で?」
 
 
 
「今日はお父さんがカレーを作ってあげる。」
 
「、、、、別にいいけど、、、」
 
「今日はお母さんは帰ってこないんだ。」
 
「、、え?、、もう帰ってこないの?」
 
 
「違うよ、そうじゃない。。今日と、、そうだな、、一週間は父さんとバーバとジィジと3人だ。」
 
「なんで??」
 
「、、それとな、これからお前はたくさん我慢しなくてはいけなくなる。欲しいオモチャも、ケーキも、少しだけ譲らなくてならなくなる。」
 
「、、、え?、、、やだよ」
 
 
「、、そうだな。でも、父さんもそうだった。いつまでも赤ちゃんじゃいられないんだぞ。。わかるか?」
 
「、、何??なんでー?うれしくないよ。」
 
帰りに道、バーモントカレーを買って、誰もいない暗い家に帰った。
その時は、もうガムの喜びも、アヒルの楽しさも全て吹き飛んでいた。
 
「、、お母さんは??ねえ?父さん、、」
 
私が涙ぐんだその時、奥の部屋から祖母が出てきて、私を優しさ10で抱きしめてくれた。
 
その日は、半べそをかきながら、祖母の腕で抱かれて眠りについた。
 
夜中、父の歓喜の声と、祖母の着替える音で、目が覚めた。
 
「お袋!男の子だって!男の子だってさ!!」
 
「いいからあんた、すぐ日赤病院いかなきゃ!」祖母が着替えながら、大声で父をどやしつけていた時だった。
 
半分寝ていた私は、父に抱きかかえられ、次の瞬間、三回ほど程宙に舞った。
 
「おい、弟だ!弟が出来たぞ!!楽しいぞ!嬉しいぞ!」
 
弟が産まれた。
 
その日の記憶は、鮮明に覚えている。
バーモントカレーのハチミツ味も、ブルーベリーガムの味も。
 
34年後の洗足池も、相変わらずボートの上に人生が行き交っているのだろうか。
皐月の池上線からそんなことを思って五反田へ向かった。
 
変わらないこと、それも大田区の魅力。

大田区とセーラム市をつなぐ、大森貝墟という絆

大田区大森、正式には大田区山王1-3には大森貝墟の碑が建てられている。
この貝墟碑は1930年(昭和5年)に建てられたもので、私はこの碑に、遙かなる歴史を感じずにはいられない。

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スティッキーズ内大森貝墟の碑リンク
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モースという考古学者と日本近代考古学の発祥

ときは明治10年まで遡る。アメリカの動物学者、6月の初夏と言うには湿りすぎている日本の汽車の中でエドワード・シルヴェスター・モース(以降モースという)は横浜から新橋へと向かっていた。
メイン州のポートランドに生まれたモースは、高校は入退学を繰り返し、職も長続きはしていなかったが、少年時代から採取していた貝類の標本は、学者にも浸透しているほどだった。彼は18歳という若さで博物学協会に参加し、21歳には新種のカタツムリを発見し、協会に報告していた。
そんな彼が、腕足動物の研究のため、日本へ訪れていたのだ。
文部省の了解を得ようという目的で汽車に乗っていた彼は、大森駅を過ぎてからすぐの崖に貝殻が積み重なっているのを見つけた。
モースはすぐに日本政府へ許可を求めた。9月には助手ら3人と土器や骨器を発見し、10月に本格的な発掘が始まったのだ。
この出来事が日本近代考古学の発祥といわれている。

大森貝墟に魅せられた男たち

貝塚ときくと、古く勉強した古代人のゴミ捨て場という印象があるが、古代人のゴミ捨て場も現在では歴史的遺跡になる。
特に大森貝塚から出土されるものの多くは縄文時代後期から末期のもので、まだ文字を持たなかった縄文時代のものだという。
乱雑に重なった大森の貝の層から歴史を見る者は、当時モースだけではなかったという。


植物学者としても有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子であるハインリヒ・フォン・シーボルトだった。
モースとハインリヒは、第一発見者の功を争っていたというが、モースが東京府に独占発掘許可を要請していたことや報告書を1879年に出版したこと、ハインリヒ自身が考古学研究から遠のいたことにより、モースの大森貝塚研究は日本近代考古学の発祥として強く印象に残ることとなった。
モースは大森貝塚の出土品の重複分をアメリカへ持ち帰り、博物館・大学へ寄贈した。そしてアメリカの資料を東大に寄贈して貰うことにより、国際交流の橋渡しにもなっていたという。
その後、彼は三度にわたる来日をし、日本の遺跡を研究し続けた。
晩年、セーラムの自宅で87歳の生涯を終えるまでモースは日本考古学に憧れ続けたのだ。

時空と国を超えた絆

悠久の歴史を発掘というかたちで示したモースとのその舞台となった大森貝塚が取り持つ縁で、大田区立郷土博物館とピーボディー博物館(現ピーボディー・エセックス博物館)は姉妹館提携をし、それが発展して、平成3年に大田区とセーラム市は姉妹都市となっている。

1人の人間が起こした行動が、現代の国家間を超えた特別な絆を生むことになったのだ。

NTTデータ大森山王ビル横の小道を一歩踏み込むだけで、はるか昔、文献や土の中からしか感じられない時代の重さは遺跡というかたちで私達を繋いでいる。


いつか私たちの暮らしも遺跡として語り継がれるときは来るのだろうか。

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スティッキーズ内大田区立郷土博物館リンク
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○大田区サイト セーラム市

大森の「大」

一昨日、休暇をとって、海へ行って来た・・・・。

私は、ご飯を食べるのも、お酒を飲むのも、寝るのも、ほとんど地元から出ない。
30ウン年間、仕事以外は大田区大森から基本的に出ていない。

そんな私が珍しく、自然を親しむ為に郊外に出た・・・・・

 

と、言いたいところだが、ウソをついた。ごめんなさい。(笑)

実は、違う。

上記の写真も、また地元、大田区なのである。

今日はそんな私の地元、大田区大森の「大」海原ついて記事を書こう。

大森からバスで海に向かって、20分。城南島海浜公園がある。
ここは、砂浜があり、右に羽田空港を望め、飛行機の離発着が間近に見られる。
というより、手に届きそうな距離に飛行機が飛んでいるのだ。爆音を轟かせ、飛行機が着陸する。肉眼でも飛行機の窓のお客さんが見えそうな距離なのだ。

さらにここには本格的なキャンプ場があり、宿泊もできる。堤防では海釣りも楽しめるスポットもある。
 大森は大都会にいながら「大」海原が身近にある街なのである。


ここのバーベキュー場は思い出がある。
20代前半のころ、男女6人でバーベキューをして、いざ帰るころになり、バス亭に行くと、最終バスは終わっていた。


 ここは東京でも辺境の地で、タクシーなんぞこない・・・。
日曜日の夜になると通行人さえほとんど通らない。

お酒を飲むことを前提にしていたので、車できている者は一人もいなかった。

さて、どうしよう・・・・。

皆は途方に暮れた。
たしか10月末ぐらいだったと思う。
季節は秋。すでに晩秋の海風が薄着を刺した。

その時、皆の非難は私に集中した。
「おい、タジー、お前の地元だろ!何とかしろよ・・。」と。
確かにそうだった。平日のバスダイアを想定していた私のミスなのだ。

キレ気味の友人と女の子の白い目に恐縮し、私はこの状況の打開を試みた。

―あ、ここは区の公園だ!管理事務所に行けばどうにかなるかも!―

そう言って私は管理事務所に駆けていった。

木の中をかけて管理事務所にたどりつく私。

管理事務所の電気は消えていた・・・・。


―マジか・・・。―

私はさらに眉間に皺を寄せて策を捻り出した。

―そうだ、車の人に頼んで駅まで連れてってもらおう。昼間は40台近くが止まっている駐車場だ。まだ車がいるはずだ―

私はそう思い、一目散に駐車場へ行った。

―え・・・ウソだろ・・・-

昼間は満車で入れない大駐車場は、広い闇と化していた。

どうしよう・・・。

その時、私に一つの考えが浮かんだ。

―裏の倉庫の道ならば、タクシーはいなくてもトラックが出入りしているはずだ。

私が最後に考えついたのは、ヒッチハイクだった。

私は段ボールに「大森駅まで」と書いて、倉庫の敷地の道に出て、大きく振った。
すると、一台のトラックが止まり、スキンヘッドの運転手が出てきた。

大変失礼だが、街で逢ったら目を逸らすであろうルックスである。

「お兄ちゃん何しているの?」と聞いてくれた。

そこで、私が、「大森駅、いや平和島駅まで乗せて下さい」と言った。

すると運転手さんは「いいけどよ・・。何んでまた?」と言われた。
それはそうであろう。倉庫の道に汚い若者がヒッチハイクしているのだから。

事情を話すと、笑って乗せてくれた。 

ちなみに私は駅まで乗せてもらい、そこからタクシーを拾って戻り、皆をピックアップするつもりだったのだ。

平和島駅でおろしてもらい、タクシーを2台、城南島のキャンプ場まで手配し、無事6人生還した。

東京23区で、しかも地元と言える場所で、私はヒッチハイクをしたのである。

23区にそんな場所あるわけない・・と思っている方はぜひ日曜日の夜に城南島海浜公園に行ってみてほしい。
私の言っている意味がわかる。(笑)

ただし、くれぐれも自家用車で行くことを忘れずに。

17時台の最終バスがなくなると、公共の乗り物は上空を飛ぶ飛行機だけなのであしからず。

お会式桜が街を彩る秋の夜長の万灯練供養

暑い夏が終わり、実りの便りが届くころ大田区の池上本門寺ではお会式(おえしき)が営まれます。

 

お会式とは

日蓮上人がご入滅なされた10月13日にあわせて行われる法要のことで、特に池上本門寺では、日蓮上人がお亡くなりになった時にお会式桜(ジュウガツザクラ)が咲き誇ったという故事から、12日には万灯を掲げ報恩をささげます。

 

いつもはおだやかな住宅街の池上もこの日ばかりは夜遅くまでお題目と万灯、そして30万人を超える人々でにぎわいます。

 

 

「御命講(おめいこ)や 油のような 酒五升」は芭蕉が詠んだ句ですが、御命講はお会式のことで、秋の季語とされています。まさしく本門寺のおひざ元ではお会式とともに本格的な秋の訪れを感じさせてくれる大事な行事となっています。

 

 

2017年、今年のお会式は日中気温が29℃まで上昇し、まだ残暑を思わせるような陽気でしたが、夕方には季語にふさわしい涼やかな風が吹きはじめ、池上本門寺へと歩みを進める人々の足取りも軽やかに感じられます。

 

 

午後7時、大田区中央6丁目付近の池上通りではもうすでに万灯を準備する風景が見られます。通りを飾る提灯と、笛、太鼓の音が見慣れた風景を変えていき、お会式にむかう歩みと共に少しずつ気分も高揚していくようです。

 

 

本門寺周辺では車はおろか、自転車も乗り入れができません。正面の参道に至っては初詣を思わせるような多くの人で、警察の方々による誘導も入念です。

 

 

本堂へと向かう人々の右側を主役の万灯が連なってゆきます。古くは提灯にお会式桜を添えた簡素なものだったそうですが、江戸の火消しが参拝するようになると、纏がおどるようになり、笛と団扇太鼓が加わると、年々賑やかになっていったそうです。

 

 

池上本門寺のお会式は他の万灯行事とは異なり、五重塔などの宝塔を紙で作られた花が明るく飾っているもの、人形や行灯をかたどったものなど、多種多様な万灯を数多く見ることができ、参道に腰かけ、万灯を見物するだけでも見飽きることはありません。

万灯と歩みを進めていくと、正面に加藤清正が寄進したといわれる長い石段が見えてきます。お会式の絶景スポットのひとつでもあるこの石段は下から見るもよし、上から見るもよしで、黒山と万灯の白く淡い光がゆらめいてとても幻想的です。

 

 

【注意】階段に上り始めてからはとても危険なので立ち止まったり、振り返って写真などは撮らず、石段を登り始めたら最後まで登り切りましょう。階段の上からの景色は参拝後に帰りのルートで楽しむことができるので、ここではマナーを守って前を見て、足元に気をつけながら、前に進みましょう。

 

 

正面には仁王門。勇壮な仁王像の間をきらびやかな門燈の列が通り過ぎてゆきます。ほの白い灯りに照らされた仁王像の幻想的な陰影にうっとりしながら、いよいよ大堂が間近です。その左手には空襲の焼失を免れた経蔵があり、一番古くからこのお会式を見てきたであろう建造物としてこちらも必見です。

 

 

次々とやってくる万灯とともに大堂の石段を上がります。
大堂には日本画壇の偉才、川端龍子による「未完の龍」を天に仰ぎ、仁王門の方を振り返ると僧の肩越しに美しい万灯。まさにサンクチュアリからの景色は厳かで、それでいて優しく自然と笑みがこぼれそうな何とも言えない雰囲気です。

 

 

このまましばらくこの空気に身をまかせていたいと思いながらも、多くの方が後ろでお待ちですので、日蓮上人に手を合わせ、心から平安を祈りつつ、大堂を後にします。

左手には江戸以前、桃山期に建立された日本で唯一の五重塔があり、その周辺には露店が多く、参拝をすませた方が食事にお酒にと各々に楽しんでいる光景が見られます。
五重塔を背に露店に挟まれた小道を行くと前述の石段からの絶景ポイントへ。ここもたくさんの人ですので、少し眺めて心に焼きつけたら後ろの方に譲ってあげましょう。聖域での欲張りは禁物です。

 

 

今年は大田区中央6丁目を午後7時ごろ出発。のんびり歩いて、ちょっと寄り道しておよそ2時間。夜9時を過ぎてもまだまだ参詣者も万灯の列も途切れることもなく、例年では深夜まで及び、長い夜となります。この日ばかりは子供たちも親公認の夜更かしです。

日蓮上人は「一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祈るべし」(自らの幸せを願うなら、世の中の幸せを考えるべきだ)と説いたそうです。
お会式の帰り道、石畳の上で綿あめを片手に嬉しそうにたこ焼きを頬張る子供達のほほえましい姿を見ていると、にわかに平和であることのありがたさを実感してきます。

今日の笑顔のひと時は安国を願った日蓮上人のお心と、未来の平和を希求した先人たちの不断の努力のおかげだったのだと、そっと教えてくれているような夜長のひと時でした。