鷲神社の熊手で、来年も商売繁盛

池上本門寺のお会式で万灯を眺めながら、酷暑が続いた夏も過ぎ、大田区にも秋の訪れが…と思ってから数日。

あっという間に冬の始まりを感じさせる季節になると、大森の鷲神社では酉の市が開かれます。

今年は11月1日(一の酉)、11月13日(二の酉)、11月25日(三の酉)と三の酉まであります。

大森の駅から歩いて5分ほどの鷲神社にはたくさんの熊手が飾られています。

古くは収穫祭として参拝した人目当てに農機具などを販売したことから、熊手は運をかきこむという縁起ものとされ、商売人の間でもてはやされたことから今に至っているといわれています。

鷲神社は大きな神社ではありませんが、お酉様への参拝と熊手を求める方で大賑わい。

大森駅から鷲神社へ向かう途中にはミルパ商店街があり、大きなアーケドの下ではお好み焼きに、焼きそば、カステラや七味など、たくさんの露店がが連なり、こちらも多くの人でにぎわっています。

近年アーケードに出店する露店の数が減ったようにも感じますが、道行く人の表情には年末の慌ただしさの前のひと時の安らぎと、来年への希望がにじんで見えるような気がして、見ているだけでも心が温まります。

寒さ本番を迎えるこの時期、明日の商売繁盛を願いつつ、熊手を抱えて露店で熱燗を一杯なんて楽しそうです。

ちなみに、酉の市の日は鷲神社、商店街周辺は通行止めになっています。JR大森駅か、京急大森海岸駅が最寄り駅になりますので、そちらのご利用が便利ですよ。

 

都内唯一の浅間造、多摩川浅間神社と木花咲耶姫命

中原街道の道中、丸子橋を渡る直前に、多摩川の堤防がはしっている。


この堤防を多摩川駅方面に登っていくと、川とは反対の堤防に緑豊かな場所がある。

その中へ入っていくと赤紅と浅葱色が光に照らされ美しく輝く浅間造の神社へ行き着くことが出来る。
ここが都内で唯一、浅間造を施した神社、多摩川浅間神社だ。

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スティッキーズ内 多摩川浅間神社駅リンク
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夫を思う心が時を越えた由緒

多摩川浅間神社は800年ほどの昔(1185年頃)に創建されたと言われている。当時の右大将源頼朝が出陣した際に、北条政子は夫の身を案じ後を追いました。
しかし、わらじの傷が痛みだし多摩川にて傷の治療をすることにした。滞在中、亀甲山(現在の亀甲山古墳)へ登るとそこからは富士山がとても鮮やかに見えたという。
富士に自分の守り本尊である浅間神社があった政子は、その浅間神社に向かい手を合わせ、夫の武運を祈ったという。
そのとき、身に付けていた正観世音像を建てたことにより、村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び祀ったと言われ、この出来事が多摩川浅間神社の由緒と言われている。
時が流れ1652年5月、神社表坂の土留め工事を行っていた際、正観世音像が発見されたという。
多摩川で泥を洗い落としてみると、片足がなかったことがわかり、足を鋳造し、神社に祀り神事を行ったという。このことから多摩川浅間神社の礼祭は6月に行われるようになったという。

★TIPS:正観世音像(聖観音菩薩像)
仏像の中で最も多いと言われている聖観音像。
中国では5世紀頃に観音菩薩像が造られるようになり、6世紀に朝鮮を経て仏教が日本に伝えられると、密教が盛んになる8世紀には聖観音とともに幾つもの観音像が盛んに造られた。
仏像の中では、菩薩と名付けられたものは如来に次いで高位に位置すると言われており、人々を悟りへの導きとして手助けするという。

 

三社一体の鎮守と浅間信仰

明治40年まで、この地域には浅間、赤城、熊野の三つの神社があったという、一村に一神社という合祀のための政令がくだされると、村人たちは話し合い、浅間神社が新しい村の
鎮守となった。
そのことからこの神社には3種の社紋があり、それぞれに祭神がいることとなっている。
左三つ巴は赤城神社の伊耶那岐命と菊理姫命を、八咫の烏(やたのからす)は伊耶那美命と速玉乃男命、事解乃男命を祀っているといい、浅間神社の祭神は木花咲耶姫命となっている。
かつては浅間神と呼ばれていた木花咲耶姫命の鎮まる霊峰富士に、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」を唱えながら登拝し、その山容に似た雄大なご神徳を仰ぐ、このことから浅間信仰は富士信仰とも呼ばれ、富士山にその起源がある。
日本一と呼ばれ、太古、この多摩川亀甲山古墳からも見えたというその美しい山容から女神と見る信仰が生まれたのだ。
信仰は起源とされる富士山本宮浅間大社にとどまらず、この遠い大田区にも伝わっていた。


富士講と呼ばれる信仰の団体は境内の中に食行身録の石碑を残している。石段の途中に見える、その石碑はかの勝海舟の直筆を刻まれているという。

木花咲耶姫命と桜香る多摩川

多摩川浅間神社は木花咲耶姫命を祭神としている、この神様は山嶽を守る神、大山祇神の姫であり、天照大神の孫、瓊瓊杵命の妻とされ、桜の花が咲き、匂うような美しい女神とも呼ばれている。
この多摩川浅間神社は多摩川亀甲山古墳にあるように、高台になっている。
社務所はその中でもかなり高所に位置していて結婚式をはじめ趣味の会、地域懇談会などに利用できる“おもてなしの場”を用意している。その眺望は美しく、多摩川堤から電車の行き交う町並みを、快晴の日には遠く現在も富士山を望むことが出来る。
多摩川が春には美しい桜を咲き誇らせる景色は、日本一の山と、木花咲耶姫命の御わすこの神社に見守られた事による縁が生み出したご利益なのかもしれない。

伝承!人がつないだ大田区のお神輿

大田区でも毎年多くのお祭りが開催されますが、「お神輿」が出るお祭りはひときわ華やかで、活気がありますよね。今回はそんなお祭りの華、お神輿が出るお祭りにスポットをあててみたいと思います。

お神輿と聞いてご存じでない方はいらっしゃらないと思いますが、お神輿や担ぎ方にも様々な種類が存在し、それぞれの地域や神社によって異なっています。「大田区のお祭りに参加したい!お神輿を担いでみたい!」という方にもお力になれるように、まずは大田区の「お神輿」の基本的なことからご紹介してみたいと思います。

(※本記事は大田区の祭りの会に参加される方にインタビュー形式で取材させて頂いたものを基に作成しております。一部例外や不備等ある可能性がございます。予めご容赦くださいますようお願い申し上げます)

 

お神輿を管理しているのはどこ?

 

毎年楽しいお祭りや勇壮なお神輿が見られるのはそれをしっかり管理運営してくださっているみなさまのお力があってのものです。

しかし、そのお祭りやお神輿を管理運営されているのはどういった方々なのか、詳しくご存じの方は少ないのではないでしょうか。

もっとお祭りを深く楽しんだり、お祭りに参加してお神輿を担ぐには、運営されている方々のことも知ることが必要です。そこで、まずはお祭りやお神輿を管理、運営、窓口となっている団体みなさまについてご紹介したいと思います。

大田区のお祭りやお神輿を管理運営している団体は大きく分けて以下の4つに分かれます。(※地域によって例外があります)

 

神社

大田区内には100を超える神社が存在しています。お神輿を神社で所有しているところがあり、このお神輿のことを本社神輿と言います。お神輿が人々の手によって町を巡ることを渡御(とぎょ)と言いますが、渡御に際して神社は神様を輿に遷す「御霊入れ(みたまいれ)」という大切な儀式を行います。渡御により神社を祀る町会(氏子町会)はお神輿に御座す(おわす)神様に、日ごろの守護の感謝を奉じます。

神社がお神輿の管理を行う場合もありますが、お神輿の渡御、お祭りの運営に睦会や町会の協力と連携はかかせません。

 

睦会(むつみ会)

お神輿が町会を巡る渡御の際の実質的な運行を執り行う団体で、お神輿の担ぎから、渡御の安全運行の指示、お神輿の担ぎ手、祭事運営の任を受けるとても大事な役になります。それぞれの神社の本社神輿の渡御を行いますが、それぞれの睦会でお神輿を所有するところもあり、お神輿自体の管理は睦会によってさまざまです。また、睦会は地元の神社のお神輿だけでなく、他の地域へ出向くこともあり、これもそれぞれの睦会の会則によって異なります。また、渡御の重役を果たす睦会は祭事参加への大事な窓口ともなっていて、睦会への参加は町会の掲示板などに参加を募るお知らせがある場合があります。睦会への参加をお考えの方はそちらで確認するか、スティッキーズでもご紹介してまいりますのでぜひご参考にして頂ければと思います。

 

町会(氏子町会)

神社が存する地域において共同で氏神様を祀る氏子の町会は祭事の協力者として渡御のおもてなしやサポートなど、たいへん重要な存在になります。神社への信仰により祭事も行えることから、お神輿の運行にも大きな役割を持つ町会ですが、個別に神輿を所有するところもあり、実際にお神輿を管理運営することもあります。それぞれの会則がありますが、自分が住んでいる町会のことなので、近所の方や町会長さんに聞くと、会について教えていただけると思います。とても身近で親しみやすい団体と言えます。

 

個人(個人で所有するお神輿)

神社、睦会、町会に限らず、個人でお神輿を所有し管理運営される方もいらっしゃいます。担ぎ手を個人で集め神社から御霊入れを受け渡御することもあります。なかには御霊入れせずお神輿を担ぎ、街を巡ることもあったりと、お神輿を担ぎ、コミュニケーションを大事にする熱いハートの団体です。個人で数千万円もするお神輿を寄付したり、運営も個人で行ったりと情熱の高さには感服です。

個人の方の団体なので窓口については現段階ではご紹介できませんが、ご協力いただける団体の方がいらっしゃれば、随時こちらでご紹介させていただきたいと思います。

 

大田区でのお神輿の担ぎ方って?

 

大田区にも多くのお祭りがあり、お神輿もたくさんあります。

見た目には神殿をかたどった輿が多く見られますが、お神輿の担ぎ方に目を向けると地域や神社などによっていろいろと異なっています。

それぞれの担ぎ方によって進行や動きに特色があり、大田区では大きく分けて「江戸前神輿」「城南神輿」「よこた神輿」の3つの形態の異なるお神輿があり、これは文化、風習、お神輿が通る道幅などの関係から生まれたといわれています。

3つの形態をご説明する前に、まずは基本のお神輿の形と名称を簡単にご説明いたします。

神様がお乗りになるところを輿と言います。輿には神殿型のものが多く見られ、これ以外にも神木や提灯、地域の風土文化に由来する象徴的な形状の物などがあり、さまざまな輿があります。その輿の下を「通し棒」「芯棒」と呼ばれる木の棒が左右2本入り、これが輿を支えます。また、人々が担ぐ棒のことを担ぎ棒と言い、その配置や形で呼び名が変わることがあります。

上記がお神輿の形となりますが、これに担ぎ棒が変化して以下の3つのお神輿となります。

江戸前神輿(江戸前担ぎ)

浅草などで見られる基本的な組み方の神輿です。神輿を通す2本の通し棒、その左右に並行して並ぶ外棒で組まれていて担ぎ手は皆、進行方向に向いて(前を向いて)担ぎます。また、お神輿の前の通し棒2本は担いでいて一番目立つ場所から通称“花棒”と言われています。

 

城南神輿(城南担ぎ)

通し棒に前後3本づつ「とんぼ」が入ります。とんぼの一番前と後ろを「前棒」「後棒」と言い、内側のとんぼを「あんこ」と言います。担ぎ方は進行方向に対して横向きで(カニ歩き)横棒に肩を入れて担ぎます。また大拍子(太鼓)が付いていて笛を鳴らし太鼓を叩きながら担ぎます。この神輿は通称“ちょいちょい”と呼ばれています。

よこた神輿(よこた担ぎ)

通し棒に前後2本づつ「とんぼ」が入ります。とんぼの担ぎ手は輿の方に向かって担ぎ、よこたの合図とともにシーソーのように上下に大きく揺らします。通し棒の担ぎ手にとても負担がかかるので、とんぼの担ぎ手はぶら下がるのではなく振り上げて、反対側のとんぼの担ぎ手を下ろしてあげるのがポイントになります。羽田などで見られる、よこた神輿は激しい担ぎが有名で毎年多くの観光客が訪れます。

この他に相州神輿(どっこい)というお神輿があり、こちらは通し棒のみで横棒がありません。まれに一部のお祭りでも見られることもありますが、一般的に大田区内では「江戸前神輿」「城南神輿」「よこた神輿」の3種の神輿を楽しむ事が出来ます。

これだけの種類の神輿を一つの地域で楽しめるのは全国でも少ないそうで、まさに大田区はお神輿の聖地といっても過言ではないようです。

 

今回は大田区のお神輿の基本をご紹介させて頂きました。参考にしていただいて、今まで見るだけだったお祭りに、担ぎ手として参加して気持ちの良い汗をかいてみてはいかがでしょうか。お祭りを通して悠久の歴史と文化を体感し、街の方との笑顔あふれるふれあいが生まれることでしょう。

次回は大田区のお神輿のあるお祭り第2弾「お神輿のあるお祭りはどこでいつ行われるの?編」をお送りいたします。ご期待ください!

 

夕闇の中の黄金郷、大田区中央春日神社の昼の顔、夜の顔

大森駅西口より退場し、八景坂を池上方面へと下っていく。
池上通りの喧騒を横目に、直進すると約15分程度で環七通り春日橋へ行き着くことが出来る
南東京の大動脈、環七の大きな交差点を渡り、一つ目の小道を右へ至ると春日通り、春日神社へたどり着く。
この春日神社は、人通りの多い環七と、住宅街にほと近い場所にあることからか、神社は小高い塀に囲まれている。
しかし、淡黄蘗と青竹色のこの塀の向こう側に、黄金郷は確かに存在する。
 
 

■学問と武道の三柱神と春日神社

 
春日神社は全国にも多く存在するが、その総本社は奈良の春日大社で、春日神は神道の神にあたり、春日権現とも称されている。
大田区の春日神社では建御賀豆智神・伊波比主神・天児屋根命・比売神の四柱神のうち建御賀豆智神(たけみかづちのかみ)・伊波比主神(いわいぬしのかみ)・天児屋根神(あめのこやねのかみ)を祀っている。
記録が残っておらず、正確な年代は不詳であるが、この春日神社の由緒は鎌倉時代に遡り、奈良の春日大社より、大田区春日神社へ神々を迎えたことが創建と言われている。その後、昭和13年に本殿を建設し約700年もの間この地で多くの人々を見守るよう現在の形になったという。
 
★TIPS:大田区春日神社の三柱神
 
建御賀豆智神は雷神、かつ剣の神とされ、相撲の元祖たる神とも呼ばれている。
伊波比主神は建御賀豆智神とゆかり深く、剣の神であり、人々を奮い起こす神であると言われている。
天児屋根神は祝詞の神、出世の神と言われており、天照大神の岩戸隠れの際、その前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出したという逸話がある。
この三柱神は武芸・学問・出世の神であり、人々は必勝祈願や就労祈願に参拝することが多い。
 

■昼ーーー天色と孔雀緑の聖域

 
門をくぐり、鳥居を抜けると、外の住宅街や車通りが嘘のように大田区春日神社の境内は静かにそこにある。
大木から伸びる一筋の参拝道は当然のようにその姿をありありと映し出す。手水舎には荘厳な龍の細工がされており、この神社の格式を保っているのだ。
快晴の日に赴いたこともあってか、この神社の中は天が空色と言うにより青く、木々の緑の向こう側で孔雀緑の本殿の屋根が輝いている。そのコントラストはとても美しく、かの春日大社の片鱗を目で、肌で味わうことが出来るのだ。
春日神社のほと近い場所には集合住宅もあり、中には公園が建てられている。公園で遊んでいた親子が帰り道に参拝に訪れる景色も多いこの場所は、現代の中にも確かにその神聖さを描き出している。
 

■夜ーーー夕闇と黄金の聖域

 
さて、冒頭で黄金郷はたしかにあったという一文を書いたが、これはまさしくその通りであり、この神社は昼の顔と夜の顔を、一日の中で大きく変える。本殿の戸が閉められ、灯籠の明かりが色づき始めると、この神社の数々の細工が、美しい黄金色に輝き出すのだ。
境内の中は神聖な光りに包まれている。
寺社は夜間、恐怖談などの舞台にもなりやすく、幾つかの怪しさを作り出すことも珍しくはないが、この神社は間逆であり、夜にこそその荘厳さが際立ち始める。門戸に施された社紋は灯籠の光を浴び色濃くその力を放ち、境内に光を照らす。
日本画の多くにも美しく描かれる黒と金の配色が現実としてこの目の中に飛び込むさまは、一度自分の目で確かめてみることを強くおすすめする。
 

■神々のいる場所、そして都市の中で生きる人々

 
都市の神社にも珍しくはないのだが、この神社は非常にアナログさを保っている。
祈願の申込みは電話を推奨し、授与品はこの神社の中でしか購入ができない。
これも「一年神に守護を得たら、感謝の気持ちを込め、神社へ返すことが大切」と考えるこの神域の心だからこそ出来ることなのだろう。
何度も言うがこの春日神社は住宅街の真っ只中に存在する。池上通りはバスが走り車が行き交う、春日通りには通勤のサラリーマンや学生、日々を忙しく生きる人々がこの神社の横をすり抜けていく。
幾つもの時代が重なり、遠い700年というときを経てなお、この場所に佇むこの黄金郷は、それでもなお人々を見守り続けているのだ。
当然に存在すること、それ自体が非日常であり、必然であるかのように大田区春日神社は今もこの地にあり続けている。
 
 

太陽神の住まう場所 ~天照大御神を祀る八景天祖神社~

JR大森駅を西口に降りるとすぐに木々を青々と実らせている石段が出迎えてくれる。
東京の駅の中でこのように唐突に現れるレトロは別段珍しくはないが、この階段は八景天祖神社と言われる神社へと続いている。

この神社は享保の時代(1716年〜1735年ごろ)に大森の庄屋や年寄、百姓らが伊勢講を組織すると、皇大神宮で御分霊を受け祭祀したのが創建と伝わっている。

■駅前に広がる和風ファンタジー

大森駅の階段を下ったときに見えるこの景色を大田区に住む皆様はご存知かもしれない。
この神社は周りの住宅やビル群の中に忽然と姿を表しているのだ。
狭い石段を踏みしめていくと天祖神社の命名石碑を見ることが出来る。狭く長い石段を登っていく途中には江戸より残ると言われている稲荷石社が今もそこに佇んでいる。
この雑木林の中にあるような神社は間違いなく都市の駅前に存在している。


まるで外の世界と隔絶したようなその和の風景の中石畳を登っていくと、境内にたどり着く。
無人神社であっても手入れは行き届いており、手水舎は空ではあるがその姿はきれいにとどまっている。
とても駅を降りて数分も立たない位置にこのような場所があるとは、この場を見たことがない人々には少し想像がつかないのかもしれない。

■八景坂と神明山

さらにこの神社には少々不思議な事がある。
境内と拝殿前に掲示されている由緒の社号が異なっているのだ。
「神明山天祖神社」そして「八景天祖神社」この場所にはこの2つの名称が混在している。神明山というのはこの神社がおわす小山の名前になるのだが、八景坂というものは社前の坂道を指していると思われる。
この坂は坂上から展望すると房総半島までを眺望できたと言われており、大田区に縁の深い歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれている。


この坂は八景を眺めることが可能と言われていた所以からこの坂の名前を取っているようだ。
たしかに今現在も、アトレがあるため、海側を臨むのは厳しいが、左右に伸びた池上通りの奥の方までを望むことが出来るのは、八景坂の現代の名残とも言えるのかもしれない。
この神社における社宝でもある「義家鎧かけの松」は現在賽銭箱の横に鎮座されているがかつては社殿の脇に生えていたと言われており、「後三年の役」にて松に馬を繋いでいた義家が鎧をかけて休憩したと言われる松の切り株だ。
平安の時代から残ると思われるこの切り株も、現代に残るその姿はこの場所の非現実感を際立たせる。

■御朱印状がなくなれど、現代も訪れる多くの参拝者

この神社では平成25年頃から御朱印の対応をしていないようではあるが、平日においても駅前という性質からか、多くの参拝者が訪れる。
ボーイスカウトの少年少女たちや、近隣の住民の清掃活動もあり、きれいに保たれた境内ならばこそ、多くの参拝者を受け入れることの出来るようになっているのだ。
参考文献が時代の流れや、空襲を経てほぼ残っていないこのような神社も、今も信仰を失うことなく大田区には数多く存在している。

平安ロマンは生きているか?六郷神社今昔物語

日本の歴史は文化の深さや考古学的発掘によりその長さを実証しているが、約1000年に及ぶその歴史を体感できる場所が、大田区に存在する。

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スティッキーズ内 六郷神社リンク
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六郷神社は約1000年に及び大田区を見守り続けている日本の古くも荘厳な神社の一つだ。

<六郷神社入口写真(夕暮れ)>

 

六郷八幡宮と源氏

六郷神社の由緒は社伝を紐解くと天喜5年(1057年)に遡る。源頼義、源義家ら父子が、この場所にある大杉の梢高くに源氏の白旗をかかげ軍勢をつのり、石清水八幡宮に武運長久を祈願した。
すると軍の士気が大いに高まり、 奥州十二年合戦とも呼ばれる「前九年の役」で勝利したため、凱旋後に石清水八幡宮の分霊を勧請し八幡宮を創建したとされる。このことから江戸時代には「六郷八幡宮」と呼ばれている。

★TIPS:前九年の役
この合戦の名称には諸説あり、源頼義が奥州十二年合戦に本格介入した年を基準として戦乱を9年間と計算したという説や、が奥州十二年合戦を後三年の役(1083年-1087年)と合わせた名称と誤解され、12年から3年を引き前段について「前九年の役」と呼ぶようになったなどの説があるが、この合戦自体の年数計算が諸説あるために書籍により合戦名が幅広く使用されている。
現在では前九年の役と呼ばれることが多い。

文治5年(1189年)源頼朝も奥州藤原氏との合戦時、祖先にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191年)社殿を造営するよう梶原景時に命じた。 社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る浄水石は、頼朝が奉献したものといわれており、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれている。

このような文献や社宝により六郷神社の創設には源氏が深く関わっていることが読み解けるのだ。

神門前の太鼓橋

 

家康の発給した御朱印状の由縁と現代に至るまで。

天正19年(1591年)徳川家康は、寺社の所領として確定させる神領として十八石を寄進する公的文書である朱印状を発給した。
さらに慶長5年(1600年)家康は神社近傍を流れる六郷川に架橋(六郷大橋)を命じる。
竣工を祈る願文を奉り、この神社の神輿によって渡初式を行ったと伝えられている。
このように徳川家との縁が深いためか、神紋として八幡宮の巴紋とあわせ三つ葉葵紋を用いている由縁になっている。
江戸時代には、東海道をへだて西側の宝朱院(御幡山建長寺)が別当寺となっていたが、明治維新の倒幕運動により、これが廃されることとなった。
明治5年(1872)東京府郷社に列格し、明治9年より六郷神社と称して今日に至っている。

六郷八幡宮の神々と六郷神社の神

六郷神社は、応神天皇(誉陀和気命・ほんだわけのみこと)を祀る八幡となっている。
八幡は、日本でもっとも多くまつられている神社で、その数は全国で4万社を超える神社の一つだ。
一般に八幡の祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、 比売大神(ひめおおかみ)の三柱の神々であり、 六郷神社でも昔はこの三神を祀っていたと言われているが、時期不明の曳船祭で、一座の神輿が上総(かずさ)の国に流されてしまい、もう一座の神輿はことのほかの荒神で、しばしば祟りを受けることがあったと言われ土中に埋めてしまった、と江戸時代より書物などで伝えられている。

★TIPS:六郷神社で行われていた曳船祭
関東三大船祭りの一つといわれた六郷神社の曳船祭。
江戸時代から六郷川にくりひろげられた、じつに勇壮華麗の一大凱旋として賑わいを魅せていた。
羽田、大師河原が氏子であった関係から、宮神輿を御座船に乗せ、四艘の足船が長さ150尺の大綱で曳く後から、各町会の迎え船と送り船が、囃子の音とともに勇ましくのぼり旗を風になびかせて無数の観覧船と共に川を下っていったという。

現在の本殿は、享保4年(1719年)に建てられたもので、三柱の神様を祀っている建築様式になっており、応神天皇一柱を祀るようになったのは、一座の神輿が流され、もう一座の神輿が地中に埋められて以後のことではないかと言われている。
八幡は、源氏が氏神にしてから武神として有名になったが、 古代大陸文化をとりいれてわが日本の発展を築いた偉大な文化の神、殖産の神とも讃えられている。

 

1000年の時をこえ、現代にのこる六郷神社

1000年というあまりにも途方もない時間をこの神社は歩んできた、ときに合戦の戦勝祈願として、またさらには文化発展の祈願や新建築物の安寧祈願として、1000年の間多くの人々の願いを聞き続けている。
現代に生きる我々の中にも未だ、神社という場所は祭りや初詣など行事からもわかるように、どこか心の置き場所のようになっている。
冬の大祓を間もなくに控えた六郷神社は、もう次の1000年に向かい歩を進めているのかもしれない。

恋の炎にその身も焦がした、大罪のヒロイン八百屋お七と密厳院

時は天和3年、一人の少女が火刑に処された。
この少女こそ世に有名な八百屋お七である。
お七伝説は諸説あるが、有力である説をあげると、天和2年の12月28日、天和の大火にて焼け出されたお七の一家は寺院に避難したと言われる。
避難寺生活の中でお七は寺小姓と恋に落ちた。現代で言う「吊り橋効果」というものもあったのかもしれない。
悲劇の中でやさしく迎え入れられた先の若者は、お七にとってはとても魅力的に見えたのだ。

 

実家でもある八百屋が建て直されると、お七一家は寺を出て、それぞれの生活に戻っていくはずであった。
しかし、お七の恋心は距離・時間というものがその恋心をより燃え上がらせたのだろう、彼女は寺小姓をずっと忘れられなかったのである。
恋の炎、という言葉はどこから生まれたのだろうか、その言葉の通りお七は愛する人とまた会いたい、共に暮らしたいという気持ちを薪にして自宅に放火した。

この放火はすぐに消し止められ、大火になることはなかったが、現代においても江戸の時代にあっても、放火は大罪であった。
ロミオとジュリエットのような悲劇のヒロインであったお七は捕縛され、付火の大罪を背負い、火刑に処されることになる。
処刑の場所は「鈴ヶ森刑場」、現代まで語られることになる彼女のストーリィはこの場所で幕を閉じた。

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スティッキーズ内 鈴ヶ森刑場リンク
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多くの書物作品や劇、歌などで語られる八百屋お七の物語であるが、その史実は彼女の火刑で燃え尽きてしまったかのようにその姿を表さない。
「天和笑委集」という作者不明の江戸前期の見聞記にて、物語風に火災現場で活躍した人や放火犯人の様子などが描かれていたが、かいつまむと「恋に身を焦がし、火を付け、自らも火あぶりにされた八百屋の娘、お七」という程度だ。
この史実の少なさというミステリアスな要素が、お七の物語性の広さを色づけているのかもしれない。

悲劇の大罪ヒロイン、八百屋お七であるが、元来大罪人は供養されず無縁となるのが江戸の常であった。
お七も他の罪人たちと同様に無縁仏となるはずであったが、彼女の恋物語はその罪を越え、多くの人々の同情を集めたのだ。

その一心な恋心こそが、小火で済んだ付火とは別に、人々の心にこそ火を付けたのかもしれない。
鈴ヶ森刑場の近くに真言宗寺院・密厳院がある。お七の亡骸はこの場所に埋葬されたという伝承があり、お七の住んでいた小石川の念仏講の人々が、彼女の悲劇に同情し、三回忌にあたる貞享2年にお七地蔵を建てたという伝説もあり、その地蔵は現在も密厳院にある。

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スティッキーズ内 密厳院リンク
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お七の物語は多くの人々に語り継がれ、今も残っている。
消して許されざる罪を犯す結末となった恋の物語だが、彼女の思いは多くの人々を感傷に浸らせた。
密厳院にポツリとあるお七地蔵にも、そのストーリィの片鱗が隠れているのだろう。

住宅街にひっそりと現れる歴史の置き土産、鵜の木大塚古墳

雪が谷大塚駅を下車し大田区立調布大塚小学校方面へと向かい7分ほど歩いたところに、住宅街の中に突如として鳥居が出現する。
ここが鵜の木大塚古墳と呼ばれる史跡だ。

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スティッキーズ内 鵜の木大塚古墳リンク
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大田区には亀甲山古墳など大型の古墳がいくつも存在する。
この鵜の木大塚古墳もそんな古墳の一つなのだ。
大田区内の「荏原古墳群」と呼ばれるものの中で最も東に位置している。旧鵜の木村の飛び地にあったため「鵜の木大塚古墳」という名がついたこの古墳の入口の稲荷神社は鳥居が連立し、その荘厳性を保っているようだ。
先述の通り、小学校付近の住宅街にあるこの古墳ではあるが、鳥居をくぐると木々のざわめきが勝り、その神秘的な音により喧騒は遠くなる。
古墳といえば、日本における古代のピラミッドのようなものと言う印象が強いだろう。

★TIPS:古墳
形状、大きさは様々であるが、古代の日本の豪族たちの墳墓の一種とされている。発掘が許可されていない古墳が多いため、その形状や土などが年代や文化を推察するための大きな手がかりともなる。発掘されている古墳からはさまざまな歴史的文化物が見つかっている。

多摩川沿いの起伏の激しい土地が多い周辺だが、この古墳の近辺は実は平坦な土地になっている。
都の旧跡としても指定されているため、参道の中には鵜木大塚古墳を説明する看板も存在した。

立ち並ぶ鳥居を抜けていくと、現在では使用されていないであろう古い汲み上げ式の井戸があった。
年代を感じさせるその佇まいからもこの神社と古墳がそれほどの昔から存在するであろうことが推察できる。
鳥居を抜けると更に石段があるのだが、おそらくこの石段はすでに古墳の一部なのだろう。亀甲山古墳と似た創りに、墳墓と神社の関係性の深さが見えた。

石段を登りきるとこじんまりとした稲荷の祭壇がある。コンクリートの塀に囲まれているため、形状がつかめないが、この先に古墳頂上へと続く道があるようだが、その道は舗装されておらず危険のため立ち入り禁止になっているようだ。

石段の頂上から下の参道を見ると、この平坦な地形にしてはだいぶ高所に当たる事がわかる。
木々のトンネルは、そこはかとなく池上本門寺の石段を思い起こさせた。
住宅地の真ん中に、このような場所があり、まるで外界と分かたれたように生えている木々は、やはり神秘的だ。

神社をあとにし、古墳の外周を沿うように歩くと古墳裏手へ回ることができる。
裏手からはまるで盆栽アレンジメントのような円形の古墳が見え、やはり日常の中に突然現れるこの場所の神秘性を底上げしているようだ。

旧跡たちはつどつど歴史の置き土産と呼ばれることが多く、たしかにこの場所もそんな歴史の置き土産の一つなのだろう。
人々の生活を、何代も見守り続け、それは未来へと続いていく。
文献が多く残っているわけではなく、当然のようにこの場所に残り続ける鵜木大塚古墳は、先の未来まで人々の生活の中にあり続けるのだろう。

お会式桜が街を彩る秋の夜長の万灯練供養

暑い夏が終わり、実りの便りが届くころ大田区の池上本門寺ではお会式(おえしき)が営まれます。

 

お会式とは

日蓮上人がご入滅なされた10月13日にあわせて行われる法要のことで、特に池上本門寺では、日蓮上人がお亡くなりになった時にお会式桜(ジュウガツザクラ)が咲き誇ったという故事から、12日には万灯を掲げ報恩をささげます。

 

いつもはおだやかな住宅街の池上もこの日ばかりは夜遅くまでお題目と万灯、そして30万人を超える人々でにぎわいます。

 

 

「御命講(おめいこ)や 油のような 酒五升」は芭蕉が詠んだ句ですが、御命講はお会式のことで、秋の季語とされています。まさしく本門寺のおひざ元ではお会式とともに本格的な秋の訪れを感じさせてくれる大事な行事となっています。

 

 

2017年、今年のお会式は日中気温が29℃まで上昇し、まだ残暑を思わせるような陽気でしたが、夕方には季語にふさわしい涼やかな風が吹きはじめ、池上本門寺へと歩みを進める人々の足取りも軽やかに感じられます。

 

 

午後7時、大田区中央6丁目付近の池上通りではもうすでに万灯を準備する風景が見られます。通りを飾る提灯と、笛、太鼓の音が見慣れた風景を変えていき、お会式にむかう歩みと共に少しずつ気分も高揚していくようです。

 

 

本門寺周辺では車はおろか、自転車も乗り入れができません。正面の参道に至っては初詣を思わせるような多くの人で、警察の方々による誘導も入念です。

 

 

本堂へと向かう人々の右側を主役の万灯が連なってゆきます。古くは提灯にお会式桜を添えた簡素なものだったそうですが、江戸の火消しが参拝するようになると、纏がおどるようになり、笛と団扇太鼓が加わると、年々賑やかになっていったそうです。

 

 

池上本門寺のお会式は他の万灯行事とは異なり、五重塔などの宝塔を紙で作られた花が明るく飾っているもの、人形や行灯をかたどったものなど、多種多様な万灯を数多く見ることができ、参道に腰かけ、万灯を見物するだけでも見飽きることはありません。

万灯と歩みを進めていくと、正面に加藤清正が寄進したといわれる長い石段が見えてきます。お会式の絶景スポットのひとつでもあるこの石段は下から見るもよし、上から見るもよしで、黒山と万灯の白く淡い光がゆらめいてとても幻想的です。

 

 

【注意】階段に上り始めてからはとても危険なので立ち止まったり、振り返って写真などは撮らず、石段を登り始めたら最後まで登り切りましょう。階段の上からの景色は参拝後に帰りのルートで楽しむことができるので、ここではマナーを守って前を見て、足元に気をつけながら、前に進みましょう。

 

 

正面には仁王門。勇壮な仁王像の間をきらびやかな門燈の列が通り過ぎてゆきます。ほの白い灯りに照らされた仁王像の幻想的な陰影にうっとりしながら、いよいよ大堂が間近です。その左手には空襲の焼失を免れた経蔵があり、一番古くからこのお会式を見てきたであろう建造物としてこちらも必見です。

 

 

次々とやってくる万灯とともに大堂の石段を上がります。
大堂には日本画壇の偉才、川端龍子による「未完の龍」を天に仰ぎ、仁王門の方を振り返ると僧の肩越しに美しい万灯。まさにサンクチュアリからの景色は厳かで、それでいて優しく自然と笑みがこぼれそうな何とも言えない雰囲気です。

 

 

このまましばらくこの空気に身をまかせていたいと思いながらも、多くの方が後ろでお待ちですので、日蓮上人に手を合わせ、心から平安を祈りつつ、大堂を後にします。

左手には江戸以前、桃山期に建立された日本で唯一の五重塔があり、その周辺には露店が多く、参拝をすませた方が食事にお酒にと各々に楽しんでいる光景が見られます。
五重塔を背に露店に挟まれた小道を行くと前述の石段からの絶景ポイントへ。ここもたくさんの人ですので、少し眺めて心に焼きつけたら後ろの方に譲ってあげましょう。聖域での欲張りは禁物です。

 

 

今年は大田区中央6丁目を午後7時ごろ出発。のんびり歩いて、ちょっと寄り道しておよそ2時間。夜9時を過ぎてもまだまだ参詣者も万灯の列も途切れることもなく、例年では深夜まで及び、長い夜となります。この日ばかりは子供たちも親公認の夜更かしです。

日蓮上人は「一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祈るべし」(自らの幸せを願うなら、世の中の幸せを考えるべきだ)と説いたそうです。
お会式の帰り道、石畳の上で綿あめを片手に嬉しそうにたこ焼きを頬張る子供達のほほえましい姿を見ていると、にわかに平和であることのありがたさを実感してきます。

今日の笑顔のひと時は安国を願った日蓮上人のお心と、未来の平和を希求した先人たちの不断の努力のおかげだったのだと、そっと教えてくれているような夜長のひと時でした。