水神の森の面影を求めて。水神公園に残る湧水の美流

御嶽山駅を下車し、東側へ5分ほど歩くと大型の保育園が見え、それを目印に辻を左へ入るとなだらかな上り坂を登ることができる。
さらに一つ目の十字路を右に仰ぐと大田区立水神公園にたどり着けるのだ。

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スティッキーズ内 大田区立水神公園リンク
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この周辺地域はその昔、水神の森と呼ばれていた。
その名の通り、水神の加護があったかのように豊富な湧水に恵まれていたのだ。
大森周辺もそうであるが、広範囲の湿地帯ならではの恵みとも言える。
青々と覆い茂った緑の中、多くの水資源に恵まれていた場所は、昔から多くの人々に愛されていたと思われるこの場所は、現在公園としてその面影を残している。

この水神公園は小さな公園だが、その内部は湧水公園にふさわしいものとなっていた。
塀を挟んで道路沿いの外側には湧水のせせらぎを聞くことのできる小池がある。この小池は水神様の洗い場と呼ばれ、当時の百姓が農具や野菜を洗う場所として使われていたものを復元する形で作られており、現在は休日や午後の昼下がりに親子連れが水辺で涼む憩いの場にもなっているようだ。


日中の開放以外閉ざされている鉄門の内側はまさしく湧水公園らしい緑と水の香りがする。
木漏れ日のなか穏やかなときを過ごせる仕様となっており、目立った遊具は存在しない。
また、水遊びをすることを推奨していない公園のため、散歩道や休憩所として利用する人々も多いようだ。
周辺でも多くの湧水があり、多くの公園地で活用されている。
この公園の特徴的なところは、公園の内側の少し小高い場所に井戸があるのだ。
古式ゆかしい石の井戸はまさしく水神の森と呼ばれていたこの地の名残を表しているのだろう。

住宅街が整備され、現在は森ではなくなってしまったこの場所にも、当時の名残を感じさせるあしらいがいくつもあるようだ。
小さい公園の中にも、時代が巡っても変わらないものが多く残っていることを大田区では深く感じる。

古来の人々の愛した場所が、現在も多くの人々を受け入れており、きっと現在の思いも未来へとつながってゆくのだろう。

初夏の木漏れ日に過ごす洗足池に映る人々の営み

初夏の日差しに誘われるように、私は区内散策に繰り出していた。JRを乗り換え東急池上線蒲田駅から15分ほど私鉄に身を委ねると、洗足池にたどり着く。
弱冷房のきいた車両から外に出ると、頬を抜ける緩やかな風と緑の匂いが鼻をかすめた。

駅前に広がる緑の景色の穏やか

洗足池駅を降りると、カフェやラーメン屋などの並びに面し、中原街道が通じている。
大田区の動脈のひとつでもあるこの車通りの多い道だが、意外にも都心のような埃っぽさを感じない。その答えはおそらく、中原街道の向こうに広がる洗足池の緑の景色によるものなのだろう。

カフェの窓際ではファミリーがランチを過ごし、洗足池の方を向き笑顔で語らっている姿が見えた。都内を走る自動車の生活と、休日を過ごす家族の生活が絶妙にリンクしているこの穏やかさが、すでに駅前で広がっていた。

 

池月橋から望む千束八幡神社という非現実

ヤナギやツツジが緑を彩る中原街道面の通りは、レンタルボートを借りるためのカップルやファミリーで賑わう。
談笑の中を洗足池の外周を沿うように西へ回る。
木漏れ日の下、通り沿いのベンチでは老夫婦が会話に花を咲かせていた。
洗足池の周辺は閑静な住宅街になっている。古くから存在しているであろう邸宅から新築の一軒家、アパートなどさまざまな生活が同居している。


池の外側に感じる人々の生活を思いながら歩を進めると、「池月橋」と名付けられた太鼓橋にたどり着く。
木々のフレームから当然のように現れるその景色はつかの間の非現実へといざなってくれる。
景観を第一に、とつくられたこの橋は2016年に架替工事が完了したのだが、この景色の中ではその真新しさを主張しすぎない。
陽の光を浴びた水面がキラキラと光を放ち、池月橋を優雅に照らす。更に奥には千束八幡神社の赤い鳥居が、はっと息を呑むような日本の風景を凛と締めていた。

もうすっかり馴染んでしまった緑の匂いのなか、すべての音を吸収するように千束八幡神社は静かに佇んでいる。
860年、旧千束郷の総鎮守として創建されたといわれるこの神社の静寂は確かにこの空間を見守っているような落ち着きを見せていた。

 

厳島神社を抜ける緑道でおこる人々の交流

束八幡神社を抜けた先に池に沿って開けた道がある。
この道は、洗足池駅付近の都心的なビル街と公園の緑が重なり、先ほどとは違う景色が目を楽しませてくれている。
のろのろと歩を進める私の横を、ランニング中のランナーが駆け抜けていった。洗足池を訪れるのは私のような散歩客や、ファミリー、カップルだけではないようだ。
確かにこの場所は道も広く平坦であるため、走るには都合がいい道と思われる。
この景色の中を走るのは体だけではなく、心を清め鍛えてくれるようだった。互いに邪魔にならない程度の気配りが嬉しく感じる。言葉はかわさなくとも、人々の交流がそこにあるのだ。
数名のランナーと気を配り合いながら歩いていくと厳島神社がある。

池北側の創建年代不明の神社が、永いときの中で埋没してしまったため1934年に現在の地に造営されたと言われている。
その建築の朱は緑の中に美しく映っていた。


小島に渡る途中、朱く美しい太鼓橋がある。何気なく橋を渡っていると、下から呼び声が届いてきた。ボートに乗ったファミリーの、小さな男の子がこちらに笑顔で手を振っていた。


その楽しそうな笑顔に思わずこちらも笑顔になる。生活の中ではなかなか味わえない自然な挨拶がここにあるようで、昔から変わらない大切なもののようでもあった。

 

過去現在未来、時代にとらわれないスタイルが集まる生活の場

緑道をこえると開けた公園と2017年より舗装がされた中原街道へ通じる新道が目に入ってきた。


公園の木漏れ日の下ではファミリーがレジャーシートの上で楽しげにピクニックランチをとっている。その付近では趣味の会がカメラを持ち寄り撮影を楽しんでいた。

この場所に訪れるさまざまな人々が年齢にとらわれない楽しみ方を過ごしている。ふと思えば、思いつきでこの地を訪れた私もそんな人々のひとりだった。
他人、自分にかかわらず多くの思いをのせ、生活が集い、大切な時間がゆっくりと流れていく場所としてこの先も人々のつながりが積み重なっていくのだろう。

洗足池

紅葉にはまだ早い、10月18日の昼過ぎ。
親父が私の手を握り、池上駅に向かった。
どこに行くのかと聞く私に、いつもとは違う優しい眼差しで、親父は、いいから着いてくるように私に伝えた。
売店で菓子を買ったり、電車内でそれを食べることを品がないと特に嫌っていた父だが、その日に限って、好きな物を買っていいと言った。
私はかねてより気になっていたブルーベリーガムをねだり、それを口にして、小言王の父の顔色をうかがいながら、池上駅のホームに立って緑の電車を待っていた。
相変わらずの古いモーター音を轟かせ三両の古びた電車がホームに滑り込んできた。
それに乗り込で、外の景色とガムにご満悦の私に、父は優しさ8で微笑んでくれた。
 
降車したのは洗足池駅だった。
私は、すぐに察した。
 
以前より母に話していた、洗足池のボートに私を乗せてくれるのだと。
 
ガムの味がなくなり、2枚目を口にしようとした時、父がアヒルの足こぎを指差した。
私は、一瞬目を丸くして、そして、目を細めた。
父は、洗足池のボートは絶対に手漕ぎボートでないと乗せないと、以前より宣言していたからだ。
 
どういう趣旨か知らないし、いまだにそれを確かめようという気が起きないなのだが、例えば、ファミリーレストランよりも渋い蕎麦屋を、遊園地よりも、池上梅園に連れて行く父なのであるか、それは何となく子供なりに理解していた。
その父がアヒルの足こぎを指してくれた。
 
アヒルは洗足池の真ん中の小島に向かった。
そろそろ半袖では肌寒い季節になっていて、寒そうにしている私に父は上着をかけてくれた。
 
小島にアヒルをつけた父は、私に優しさ5厳しさ5の視線を投げかけた。
 
 
私のはてなに、父は静かに語りかけた。
 
「お母さんはおまえだけのお母さんじゃなくなるんだ。」
 
 
 
「ん?何で?」
 
 
 
「今日はお父さんがカレーを作ってあげる。」
 
「、、、、別にいいけど、、、」
 
「今日はお母さんは帰ってこないんだ。」
 
「、、え?、、もう帰ってこないの?」
 
 
「違うよ、そうじゃない。。今日と、、そうだな、、一週間は父さんとバーバとジィジと3人だ。」
 
「なんで??」
 
「、、それとな、これからお前はたくさん我慢しなくてはいけなくなる。欲しいオモチャも、ケーキも、少しだけ譲らなくてならなくなる。」
 
「、、、え?、、、やだよ」
 
 
「、、そうだな。でも、父さんもそうだった。いつまでも赤ちゃんじゃいられないんだぞ。。わかるか?」
 
「、、何??なんでー?うれしくないよ。」
 
帰りに道、バーモントカレーを買って、誰もいない暗い家に帰った。
その時は、もうガムの喜びも、アヒルの楽しさも全て吹き飛んでいた。
 
「、、お母さんは??ねえ?父さん、、」
 
私が涙ぐんだその時、奥の部屋から祖母が出てきて、私を優しさ10で抱きしめてくれた。
 
その日は、半べそをかきながら、祖母の腕で抱かれて眠りについた。
 
夜中、父の歓喜の声と、祖母の着替える音で、目が覚めた。
 
「お袋!男の子だって!男の子だってさ!!」
 
「いいからあんた、すぐ日赤病院いかなきゃ!」祖母が着替えながら、大声で父をどやしつけていた時だった。
 
半分寝ていた私は、父に抱きかかえられ、次の瞬間、三回ほど程宙に舞った。
 
「おい、弟だ!弟が出来たぞ!!楽しいぞ!嬉しいぞ!」
 
弟が産まれた。
 
その日の記憶は、鮮明に覚えている。
バーモントカレーのハチミツ味も、ブルーベリーガムの味も。
 
34年後の洗足池も、相変わらずボートの上に人生が行き交っているのだろうか。
皐月の池上線からそんなことを思って五反田へ向かった。
 
変わらないこと、それも大田区の魅力。

大森の「森」

のび太「あたたかいひだまりにねころんでいると、葉ずれの音や小トリの声が、なぐさめてくれるようで、いやなことも忘れてしまう」
小学館発行 藤子・F・不二雄ドラえもん35巻16話『森は生きているより』

 

のび太は何かがあると、学校の裏山に行く。ジャイアンにいじめられたり、テストで0点を取ったり嫌なことがあると、学校の裏山に駆けこんだ。
また、裏山からの景色を眺めて、日本の経済のことをドラえもんやジャイアン、しずかちゃんスネオと話したりもした。

小学館発行 藤子・F・不二雄 ドラえもん「のび太の日本誕生」より

 

森は神聖なものである。

一昨年、早稲田予備校の早稲田クラスで現代文の講義をした。その時の書籍の内容もたまたま「森」だったのでその記事も合わせて書いてみたい。
扱った著書は中沢新一著『森のバロック』である。内容は明治政府の行われた神道化政策により森は解体されてしまったという内容である。一部引用してみよう。

『山や森や寺社の内域には公の権力の浸透できない場所が取り残され、神仏がそれを聖別していた』『長いこと人々は神社の森そのものに神聖を感じ取っていた』
『森の神聖の根源はそこが秘密儀に満ちた曼荼羅であったからである。ところが今や、国家が神道の名においてその内部空間の曼荼羅の解体を推し進めている。(中略)神々の保護失った森の樹木はただの経済商品となるだろう』

要するに、明治政府の神仏分離政策(皇室系統の神とその他の神仏を分離し、皇室系統の神だけが神様だからという思想を国民に啓蒙していく政策)の裏には無数の森の解体があり、それによって日本人が大切にしていた森への神聖観がなくなり、木は商品になったと中沢氏は嘆いているのである。
たしかに、敗戦後、森を切り開き、木材を輸出し、集合住宅を作ったり、ゴルフ場をつくったりして、めざましい経済発展をおこした。

ところで、中沢氏は森を「秩序をもったカオス」「秘密儀の場」と表現している。さらに日本人の信仰が国家神道だけに単一化された状態を「ハードな体質のコスモス」と表現していた。私は上記の言葉のセンスに鳥肌が立った。なぜ鳥肌が立ったかはここに書くと現代文の講義になってしまうのでやめとこうと思ったが、一つだけいうなら「秩序をもったカオス」とは、昔の森は「神神のルールがありながも混沌とした多種多様な神が混在していたのが森だった」ということだ。つまり「マンダラ」なのであり、森は曼荼羅だったのだ。あんなに神様がいるのにどうして木など大量に伐採できようか。神社から賽銭泥棒の罪より何倍も重い。
尚実際の入試問題ではここが設問になっている。講師としては「いいとこ聞くな~・・さすが早稲田!」と思った記憶がある。
(早稲田大学政治経済学部 現代文入試)

さて、ドラえもんに記事をもどそう。
さきほどの明治の神道化政策により、ドラえもんの学校の裏山は一部を除き、23区からは消えてしまったことだろう。

一部を除き・・・

しかし、その一部が、私の街、大田区中央4丁目だとしたら・・・。

私の街では、学校の裏山はまだ存在していた。

それも、大田区中央にある私の自宅から歩いて5分以内に、まさに「学校の裏山」が存在していたのだ。

通称佐伯山緑地である。

ここは佐伯氏の私有地であったが、平成12年に大田区が佐伯氏より3千平米の土地の寄付を受け、公園用地として管理している緑地である。

佐伯山緑地を見守る佐伯矩博士の胸像
佐伯 矩(さいき ただす)
佐伯矩は医学から栄養学を独立させ、栄養学研究所、栄養士制度を発展させた功績から栄養学の父と呼ばれ、世界で初めての栄養学校である「佐伯栄養専門学校」を設立した。
大正9年 国立栄養研究所初代所長
大勝13年 佐伯栄養学校創設(栄養士誕生)
昭和2年 国際連盟初回交換教授
昭和9年 日本栄養学会創始
 

 

大森第三中学校の裏手に位置し、まさに学校の裏山なのである。

学校の裏門の前から遊歩道があり、これを上っていくと先ほどの森の中に入る。

学校の裏山こと佐伯山からの景色。

実は佐伯山が佐伯山緑地として遊歩道を整備したのは最近である。私が子供のころは、カラスと蛇とオオカミがいるという噂の山であった。
もちろんいたずら小僧は佐伯山にはいり探検する。ここは「ガチでヤバイ山」ということで、入山したのがバレると大人達から大目玉をくらうのであった。
一度4年生で佐伯山に入山したことがあった。近所のまきちゃん(仮)とひろし(実名笑)と私で入山を試みた。ある裏口から山に入ったとたん。蛇が巻きついてきた。。。。

三人で悲鳴を上げて一目散に下山した。しかし、その悲鳴が大量のカラスの怒りに触れて、上空をカラスで覆われた。
ほんとに死ぬかと思った。

その年、2月14日の僕の下駄箱には、毎年くれるまきちゃんからのチョコはなかった。。。

これが原因かは不明だが。。。(笑)   後悔、後にも先にも立たず。

 

目まぐるしく廻る時代が愛した池上梅園の交差と連鎖

第二京浜のバス停、本門寺裏を降り、第二京浜を本門寺入口信号まで進む。
土地柄か古風な建物や、年季の入ったビルディングが立ち並んでいるこの交差点を右手のガードを潜ると、塀の向こう側にまるでアスレチックにも似た遊歩道が見えてくる。
ここが池上梅園だ。この場所にも、人々の永い時をつなぐドラマがある。

美人画家、伊東深水と池上梅園

歌川派の浮世絵を正当に受け継ぎ、最後の浮世絵絵師と言われた美人画家・伊東深水、記念切手の柄にも採用されている彼の名画の数々は誰もが一度は目にしたことがあると思われる。
日本画特有の柔らかな美人画は今も多くの人々を魅了し、その人気は国内外に及んでいる。
時としてその人気は、伊東深水を悩ませる期も合ったが、彼はそれでもなお独自の題材で日本画を制作していた。
伊東深水の家系は誰もの驚くところであるが、元宝塚月組娘役でもあり、日舞の家元、そして数多のテレビ番組にも出演していた朝丘雪路を娘に持ち、浮世絵を主に日米の文化の橋渡し役としても活躍し、多くのオペラや舞台美術を担った勝田深氷を子息にもつ。
その伊東深水の邸宅兼アトリエはこの池上梅園の土地にあったのだという。
現在、池上梅園となっているこの土地も戦災にあい、伊東深水の邸宅も消失してしまったという。
戦後、拡張され築地の料亭経営者の邸宅となっていたが、所有者の没すると、庭園として残す事を条件に東京都・大田区へ譲渡された。

 

池上に息づいているネオジャパネスク

池上梅園へ入場すると、外の世界からはなかなか想像できなかった和の世界へと誘われる。外国人も多く訪れるこの場所だが、賑わいを見せつつもどこか落ち着いており、人々はこの場に憩い、景色に魅了されているようだった。


木製の通路に沿い、梅を中心に様々な植物が出迎え、喧騒や車の空気がシャットダウンされる錯覚すら覚えてしまう。
入場左手側からぐるりと梅園をまわり、見晴台へたどり着くと自然をフレームに池上梅園の入口側を、そして背には池上の街を望むことが出来る。景観を大切に思うこの街だからこそのミックス的風景はネオジャパネスクという言葉に沿っているとも言えるのではないだろうか。


見晴台を越えると、なだらかな下りにはいる。見頃をとうに過ぎている梅園風景も一味違う味わいがあり、冬へ向かう季節を心地よく刺激している。

 

日本画から飛び出した世界と薬医門

下り坂も終わると砂利の音が心地良い和室前に行き着く。この場所はうぐいすネットからも予約利用ができる施設となっている。和室にの縁側には大きな池があり、その水面には和室と梅園の植物が映し出され、日本画の景色そのものとも言える。


日本画の景色を堪能すると、薬医門にたどり着く。
繁忙期にはこの場に露店が登場し、甘酒などが振る舞われるそうだ。庭園巡りも佳境に近づいてくるこの場所は人々の良い休憩地点にもなっており、ベンチに腰掛け談笑に浸る人々の賑やかさが心地良い。現在は施錠されている薬医門も、長い年月が過ぎてもなおその佇まいを保っている。

★TIPS:薬医門
薬医門は、矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと言われている説と、かつて医者用の門として門の脇に木戸をつけ、扉を閉めたときにも患者が出入りできるようにしていたという説がある。
鳥居を3つかみ合わせ、屋根を載せたような作りのものが多い。

 

清月庵と聴雨庵を受け入れる純和風

池上巡りの最終地点は茶室、清月庵と聴雨庵だ。伊東深水のアトリエを設計した、江戸の大工技術を受け継ぐ川尻善治が自宅の離れ家を自ら隠居用として建設したという清月庵。
当時、池上門前にて温室園芸と料理屋を営んでいた川尻家は、その後の都市開発の際、解体の話が持ち上がっていた。
しかし、江戸より受け継いだこの建築を保存する運動が起き、保存活動に尽力した大田区在住の華道・茶道家の中島恭名はこの建物を買い取り大田区へ寄付したという。
大田区は深水・善治の両名にゆかりの深いこの池上梅園に再建することで名を清月庵として平成元年から茶室として公開している。


清月庵の向かいにはもう一つの茶室、聴雨庵が佇んでいる。
この建物は藤山愛一郎所有の茶室であったが、昭和58年に大田区へ寄贈されたものだ。
聴雨庵の名前の由来は、藤山愛一郎の父、藤山雷太翁の号を「雨田」と称したところからという説がある。


別々の時代に、別々のドラマの主役となったふたつの建物が、この場所に肩を並べ純和風の日本庭園に溶け込み、静かに観光客を出迎えている。

★TIPS:藤山愛一郎
藤山愛一郎とは、日本の政治家であり、実業家。
1941年に日本商工会議所会頭に44歳という異例の若さで就任したという。
戦後、日本航空の初代会長に就任し、経済同友会代表幹事も兼任するなど、実業家として活躍していた。
岸内閣では民間人ながら外務大臣に就任。
1967年に勲一等旭日大綬章、衆議院選挙連続8回当選など、日本政治界に多くの影響を与えたと言われている。

 

激動のドラマたちは、日常に当然のように登場する。

清月庵と聴雨庵を後にすると池上梅園めぐりは出入り口にたどり着き、終りを迎える。
この場所は、別の時代、別の場所、別の世界が多く混在しつつ、その形をとりなしている。
日常の中に忽然と現れる緑の原風景のように、数々の人々が生きた証がこの梅園の中にたしかに今も残されているのだ。
そして、この梅園に心惹かれ訪れる多くの観光客のドラマにもこの池上梅園が記憶として残っていく。

田園調布せせらぎ公園という絶景に秘められた歴史

高級住宅街としても日本中に名高い田園調布。その徹底した都市開発プランはイギリスで提唱された田園都市構想をモデルとしている。
田園都市構想とは、都市の外側を田園や緑地帯で囲むことで、企業を誘致しても交通渋滞や公害なく、住宅環境に優れた都市を建設するというものだ。
この街には田園調布せせらぎ公園という、東京、ましてや日本にいることすら一瞬忘れてしまいかねない絶景が存在する。

駅を降りた瞬間に広がる森林風景

田園調布駅の一駅となり、多摩川駅に降車し、多摩川園跡地側へ出ると道を挟んで森林風景が広がっている。


ここが田園調布せせらぎ公園である。

3ヘクタールにもおよぶ長方形の公園はその殆どが樹木に占められている。
公園の中に入ると、まるでアニメ映画のような木々のトンネルの中を歩くことが出来る、石畳に日差しから落ちた緑色の影が美しい色合いを演出しているのだ。
公園広場近くや、道の途中には幾つものベンチや休憩スペースが設けられており、森林浴を楽しみながら友人やカップルで談笑をしている人々も多い。

この絶景の中、公園の東側へ歩いていると、この田園調布せせらぎ公園という名の通り、湧き水から小川のせせらぎを見ることが出来る。公園には幾つもの池があり、そのどれもが湧き水から水を引かれている。そしてその池は公園の木々と美しくマッチしていて、東京にいることを忘れてしまう。


東京都内でも田園調布は一風変わった場所だと思われるのは、このように街の一つ一つを細部までこだわり抜いているところがあるからかもしれない。

温泉遊園地、多摩川園が残す田園都市

田園都市株式会社(現在の東急電鉄)が田園都市をつくる目的で分譲地を買収した際、雑種地という地目、「いかり」という地名から分譲には利用できないと思案した際に生まれたのが温泉遊園地多摩川園だと言われている。
大正14年に開園した多摩川園は、いわゆる小遊園地とよばれるもので、飛行塔やお化け屋敷などの遊戯施設があった。現在の多摩川駅の両面にあった同園は、台地に展望塔や「松の茶屋」が建設されていたという。
田園都市の中「子ども向けで乗り物中心」のコンセプトである遊園地は賑わいをみせ、人々に愛された場だったという。能楽堂が建設されると、度重なる戦火からの能楽復興の拠点として、さらなる賑わいもみせていた。
田園都市株式会社による田園都市づくりは成功をおさめ、現在の田園調布の基礎を作っていったが、第二次世界大戦が始まると一時休園となった。
戦後復興に合わせ、半営業再開を果たした多摩川園は東京オリンピックの際にはさまざまな遊具を増やし年間来場者数100万人という記録を残したという。
だが、昭和43年京浜地域の大イベント、丸子多摩川花火大会が中止されると街の情勢は観光地としての環境から住環境へと移ろっていき、近隣紛争や周辺交通環境への苦情も増えていった。これらの問題が痛手を与えたであろうことは容易に想像ができる。
いくつもの問題により、昭和54年、多摩川園は閉園した。お別れイベントの「さよなら多摩川園」には非常に多くの来場客が訪れ、その閉園を悲しんだという。
田園調布せせらぎ公園の中には今も多摩川園跡地が残っており、その歴史を感じることが出来る。
この広大な土地は間違いなくかの遊園地が現代に残したものなのだ。

多摩川園後の田園調布せせらぎ公園

多摩川園が閉園になると跡地は高級テニスクラブへと移ろっていった。
これは田園調布という土地柄ともマッチし、賑わいを見せたが、バブル崩壊とともに経営苦に陥り、平成14年に営業終了した。
その跡地が売却に出された際、大田区が公園予定地としてその2/3を取得し、平成16年に公園として開放、翌々年の平成18年に公園名称を公募し、田園調布せせらぎ公園が出来上がった。

付属していた松の茶屋は旅館として営業していたが、現在は取り壊され、多摩川台公園の一部分になっている。
水と緑に囲まれた豊かな自然を感じることのできる公園は多くの植物・生物があり、湧き水を利用した池には多くの水生生物を鑑賞することも出来る。
また、この日常から隔絶されたような自然をもつ公園の広場には多くのファミリーが訪れ、遊びやピクニックなど、現在も人々の憩いの場として楽しまれている。

過去は遊園地として、現在は大型公園として、今も変わらず人々を楽しませてくれる田園調布の特別な場所として存在し続ける田園調布せせらぎ公園。この美しい絶景や、交流の場は人々のドラマが積み重なり、いつまでもこの場所にあり続けるのだろう。